檀 一 雄(だん かずお)

生後4ヶ月の檀一雄 小説家檀一雄は、明治45年(1912)2月3日未明、谷村町556番戸現在の下谷208番地(円通院前高部宅)で生まれた。
 父参郎満31歳、母トミ19歳の長男である。しかし、谷村は一雄の父祖の地ではない。本籍は福岡県山門郡沖端村大字沖端町81番地(現在の柳川市)で、一雄が谷村で生まれたのは、当時参郎が図案の枝師として、県立工業試験場に勤めていたからである。
 父参郎は、本籍地柳川沖端の地主をしている古賀という家の次男として生まれ、檀家の養子となったもので、詩人北原白秋の実家とは隣地であった。
 明治38年7月、東京高等工業学校(旧蔵前工専)図案科を卒業後研究科を経て、明治40年5月21日、山梨県立工業学校教諭として赴任した。
 当時の学校は、明治34年から南北都留の「郡組合立都留染織学校」として谷村町立病院跡(現在の谷一小プール附近)が校舎であったが、明治38年4月1日に「県立山梨県工業学校」と改称して、北都留郡広里村(大月市)に移転しその跡には、工業試験場が明治38年12月6日に設置され、事務を開始していた。
 父参郎の赴任当時は、現在中町のアメミヤ洋服店裏に居住して、大月へ通っていた。その間一時工業試験場の嘱託を兼ねまた、学校監舎として勤務した。
創立当時の山梨県繊維工業試験所 明治43年4月1日再び工業学校は、工業試験場内に移転したが、この時から父参郎は試験場技師に任ぜられ、工業学校教諭を兼任することになった。かっての谷村高校の校章は、当時参郎の図案が採用されたものといわれている。
 参郎とトミの結婚は、明治43年の暮れ近くで、沖端町の父生三の家で式が挙げられ、明けて44年のはじめに、参郎の任地である谷村町に新家庭をもったのが円通院前の高部宅の離れであった。
 参郎の当時の月給は150円、6年後に教師として福岡工業学校に再就職した時の50円にくらべれば決して悪い待遇でなかったが、参郎は他に期するところがあったか、トミにはそのうち70円しか渡さなかったという。
 土地の人たちも遠来の一家にはなにかと親切であり、とくに河口場長の弟が、トミの父米吉の福岡県庁在職時代の部下であったため、トミの内職の仕立物の世話に気をくばってくれたという。おかげで、トミはその仕立賃で、生計費の不足分を補うことができた。一雄の生まれたのは、その翌年のことであった。
父参郎のデザインとされる谷村工業高校の校章 3月8日のお宮参りは、四日市場の生出神社であった。この時から27年後、昭和14年に刊行された一雄の詩集「虚空象嵌」の口絵には、生後6ケ月前後と思われる写真が掲載されているが、参郎の母ヒロから送ってきた紋付だという。
 翌大正3年、最初の誕生日が過ぎて青葉が繁り始める頃になると、もともと人一倍活発であった一雄の動きが一段と激しくなりはじめた。ちよっとでもすきがあれば、はだしのまま裏に飛び出し、その揚句水道がわりに町の中を流れている川へ転落して危なく溺れかけたこともあったという。
 朝な夕なの散歩道は、いつも大神宮へお参りをした。朝もやに山々は紫色にかすみ、朝の冷い空気も心地よく、桑畑の中の道のそばを流れる小川の水車を見るのも一雄は大変好きであった。
 桂川から引かれる水は、水車で汲みあげられ、筧で家々の用水に送られていた。そのころ谷村町には井戸はあまりなくて、この川の水を使っていた。
 しかし、谷村町での生活も、大正3年の春を迎えてまもないある日、参郎が突然「試験場を辞めて沖端の家に帰り、秋に行なわれる官費の海外見習生の募集に応ずる準備をする」といいだした。参郎の話は突然であったが、参郎が新しい道を見つけたことに、希望をもち九州へ去っていった。
 一雄はこの時満2歳数え年でも3歳になったばかりであったが、谷村時代のある体験を語った唯一の記述としては、短篇小説「母の手」の中に次のように記されている。
 「悪童が2歳の私の眼に向って発砲した。といっても、そんな情景を決して憶えているわけではなくて、眼の中が突然真暗になっただけである。私は勿論泣き叫んだに相違ない。その時私の体をゆすぶり続ける、いうに云われぬ優しい生命の庇護者があるという事をぼんやりと感じたことを覚えている。」それは近所の子供が玩具の鉄砲に灰をつめて、狙って撃つたものであった。
 このことは、一雄が昭和34年11月18日、富士吉田市の招きで入麓したとき、出生地の都留市を訪ずれ、父参郎と親交のあった小野田叔平氏との対談の中でも述懐されている。
 檀一雄は、死後、日本文学大賞が決定した「火宅の人」の刊行を最後に、昭和51年1月2日九州大学病院において逝去された。
【詳しく知りたい人】
都留の今昔』 1978 都留市老人クラブ連合会