小 山 田 信 茂(おやまだのぶしげ)

弥三郎信茂 初名鶴千代丸、出羽守、武山。天正10年3月没。

天文23年(1554)
 晴信女、北条氏政夫人となる。婚礼に信茂蟇目役を果たす。
永禄2年(1559)
 富士雪代被害甚大被災家臣の信州出兵を免ずる。信茂は小林和泉を奉行とし宮林を刈り川除け堤防とする。
 小田原衆所領役帳に小山田弥三郎の所領記載される。
小山田弥三郎信有 小山田庄成瀬(町田市内)他 四百十九貫八百十二文
小山田弥五郎 伊豆川津郷他 三百八十一貫百文
小山田信茂画像(武田二十四将図より)永禄4年(1561)
 関東出陣に際し、富士浅間神社に起請文を出す。川中島の戦い(第4回)信茂の兵上杉軍を攻撃し名をあげる。
永禄10年(1567)
 長男義信を謀反の理由で自害させた信玄は、国内の動揺を押さえるため、家臣に起請文をださせる。信茂並びに小山田氏被官の奥秋加賀守房吉、小林和泉守房実、河村治部左衛門尉房秀、牛田善右衛門尉真綱、信玄に起請文提出する。
永禄12年(1569) 信茂、鉢形城・滝山城攻めの総大将をつとめる。小田原城攻めにも参加。
元亀3年(1572)
 小山田軍三方ヶ原の戦いで先鋒隊をつとめ大勝。
元亀4年(1573)
 信玄死去。小山田信茂長生寺に寺領安堵状を出す。
天正3年(1575)
 長篠の戦いに小山田衆も参戦したが武田勢大敗。
天正4年(1576)
 恵林寺にて信玄の葬儀がおこなわれ、信茂剣持ち役を勤める。
天正10年(1582)
 信長・家康甲斐攻め。武田・小山田両氏滅びる。3月7日善光寺にて織田信忠により誅殺される。
起請文(生嶋神社蔵)【詳しく知りたい人】
都留市史 通史編(其の一其の二其の三其の四)1996 都留市史編纂委員会
甲斐国志 第4巻 人物部 雄山閣