小山田越中守信有(おやまだえちゅうのかみのぶあり)の母

 小山田越中守信有は、父弥太郎信隆と母葛山氏の女の間に生まれた。
 葛山氏は、現在の静岡県裾野市葛山に居城を構え、駿東地域に勢力をのばす豪族で、小山田氏との関係は、不明であるが富士東麓から、北麓にかかて近接する両豪族間の同盟関係が成立していたものと思われる。
 永正5年(1508)国中にて武田信虎と合戦し、父小山田弥太郎は討死し、小山田平三は伊豆の韮山に逃れたことが『勝山記』に記されており、小山田氏、葛山氏、北条氏との関係は、親密であったことが窺われる。
 享禄2年(1529)、「中津森御太方様」6月20日に今川氏の重臣瀬名一秀に嫁いでいる姉に会いに駿河に行った。往きは、中津森から富士川を渡り、帰りは船津の小林和泉、小林入道、倉見新九郎の居館にそれぞれ泊まりながら、中津森にもどった。(妙法寺記、享禄二年己丑)
 これらが、どういう目的を持つものなのかは、詳細は明らかではないが、武田に対するけん制と郡内の有力豪族との関係強化のためと考えられている。