小林和泉(こばやしいずみ)家

 小林和泉家は、加賀守藤原吉信之裔とある。この藤原吉信は「尊卑分脈」利仁流藤原氏の出で、加藤氏の祖である。加藤氏の発祥地は、伊勢と言われ、鎌倉初期伊勢において多くの領地を得ていた。
 加藤氏は、伊勢国目代職、伊勢前部(神領の地)の所職。伊豆国狩野荘内牧郷職に補せられていた。この末裔である加藤次景廉は、石橋山の合戦で敗れて後、甲斐に来る。この一族が文治年間(1185〜90)郡内に入り、川口林郷に住み小林を名のるようになったという。
 貞応年間、小山田太郎重幸承久の乱の功により都留郡南方奉行人となり、北麓侵攻の折、小林氏は小山田氏に従う。寛正年間(1460〜66)小林尾張家が和泉家より分家して起こる。小林和泉家と小山田弾正家の縁組により小山田家の一門となる。大原松山代官。(「小山田家諸家伝」小山田了三家蔵)

小林入道正喜
文明 7年(1475)
勝山浅間神社に神田を寄進。
小林和泉守宮内丞
永正13年(1516)
出陣する。
18年(1521)
武田信虎大原舟津の小林宮内丞宅に泊まる。
大永 3年(1523)
大原代官和泉新たに家を造る。
享禄 2年(1529)
和泉守大原七郷を進退して舟津に拠点を移す。小山田越中守信有の母、駿河の帰路1泊する。
天文 5年(1536)
小林和泉守死去
小林宮内助
9年(1540)
小山田氏の陣代として信州の軍に従う。
【詳しく知りたい人】
都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会
甲斐国志 第4巻 人物部 雄山閣