現在の大月市西部にあった庄園。波賀利とも書く。
建保元年(1213)5月2日、鎌倉で起こった和田義盛の乱に荷担して敗れた古郡保忠兄弟は、和田常盛・横山時兼らとともに甲斐へ逃れてきて「波加利之東競石郷二木」で自殺した(「吾妻鏡」同月4日条)。
古郡氏は武蔵七党の一つ横山党の分れで、甲斐国古郡郷を本拠とし、氏姓に称したものとみられる。古郡氏の甲斐入部時期は不明だが、建仁2年(1202)には保忠の甲斐・鎌倉往復記事があり(同書同年8月15日条)、少なくとも鎌倉時代初期からの在住が確認できる。
乱後の論功行賞で波加利本庄は武田冠者(信光)に、同新庄が島津左衝門尉(忠久)に与えられているのは(同書建保元年5月7日条)、当庄が古郡氏の旧領だったからであり、また当時すでに本庄・新庄に分れていたことがわかる。
貞和4年(1348)7月11日の高師直奉書写によると北朝の光明天皇譲位の際の女房装束料として本庄分46貫487文の運上が武田兵庫助(氏信か)に、新庄分27貫500文が島津太夫判官(師久)に命ぜられており、新庄分は久保田35町八段・鶴牧田21町5段に対するものであるから、同率であるとすれば本庄分は約97町になり、当時の庄田は本庄・新庄合せて154町以上あったことになる。
領家(本家)については貞応3年(1224)の寄進記事のある宣陽門院領目録(島田文書)に庁分として「波賀利庄」がみえることから、皇室であったことがわかる。宣陽門院は後白河法皇の皇女で膨大な所領群である京都長講堂領を譲られている。宣陽門院領は長講堂領とともに皇室領として伝領され、文永2年(1274)頃と推定される六条殿修理科支配状写(集)では修理経費が各庄に割振られているが、当庄は柱一本の貢進を行っている。
南北朝時代には持明院統に伝領され、北朝の経済基盤であったが、当庄内には柏尾大善寺(現勝沼町)を焼打ちした初雁五郎など南朝方に属した在地武士も存在した(建武4年7月16日「斯波家長寄進状」大善寺文書)。
応永14年(1407)3月の宣陽門院領目録写(八代恒治氏旧蔵文書)にも庁分として庄名がみえるが年貢未定であり、すでに庄園としての実態は失われていたと思われる。庄域は明確ではないが、笹子山以東の現大月市笹子町・初狩町地区の笹子川流域一帯に比定される。なお庄内地名である競石の名は「中下初狩ノ間ニ地名存ス、今ハ田畠ノミニテ人家ナシ」と江戸時代まで残っていた(甲斐国志)。