小山田越中守信有(おやまだえっちゅうのかみのぶあり)
孫三郎信有(契山、越中守)初名は平三。父弥太郎信隆、母葛山氏。
永正5年
(1508)
- 武田信虎との戦いに敗れ、父信隆討死。韮山の北条早雲のもとに逃れる。
- 永正 8年(1511)
- 信虎の妹を娶り武田氏と和睦する。
- 永正17年(1520)
- 猿橋を架ける。岩殿山円通寺の再建のため、郡内衆寄進する。
- 永正18年(1521)2月18日
- 武田信虎、大原舟津の小林宮内丞屋敷に泊り、翌19日中津森を訪問。
- 大永7年(1527)
- 中津森の館に百坪の屋敷を造る。
- 享禄5年(1532)
- 谷村へ新屋敷を造り移る。
- 天文2年(1533)
- 国中に70坪の家を造る。
- 天文4年(1535)
- 山中で北条・今川連合軍と甲州勢戦い大敗する。小山田弾正討死、下の検断討死、上下吉田焼かれる。
- 天文7年(1538〉
- 北条氏綱、吉田新宿を夜襲、その後和談。
- 天文10年(1541)
- 越中守信有死去。
- 【詳しく知りたい人】
- 都留市史通史編(其の一・其の二・其の三・其の四) 1996 都留市史編纂委員会
都留市史資料編古代・中世・近世T(其の一・其の二・其の三)1992 都留市史編纂委員会
甲斐国志 第四巻 人物部 昭和47年雄山閣