
藤 堂 良 道(とうどうよしみち)
姓は藤堂、修姓して張。名は良道、字は子基、通称は主計、梅花・龍山・如蘭亭・富士唐麿などと号した。
明和7年(1770)8月30日に生まれ、天保15年(1844)3月7日に75歳で没した。代々伊賀の藤堂侯に江戸定府の藩士として仕え、500石の禄を賜っていた。祖父良鼎は、字を君県、号を巴陵。『先哲叢談続編』巻八の石島筑波の項に巴陵の記事が見られるが、巴陵は荻生狙徠門下の筑波の義兄(巴陵の妻は筑波の姉)で、狙徠門下の入江南溟に従学した漢学者であった。
梅花の父は、名を良文、字を子質、号を君山。梅花は父君山とともに、祖父の師である入江南溟の養嗣子入江北海に学んだという。いずれも漢学を修め漢詩も能くした、まずは好学の家系であったと言ってよく、巴陵・君山・梅花三代の詩は、稲毛畠山編『采風集』(文化6年刊)にも収録されている。
梅花は中年に至って藤堂家の禄を離れ、浪人の境涯になった.浪人して以後、梅花は文人を業として日本各地を遊歴し、かつての江戸の文人たちとの豊富な交遊経験を活用して、乞われるままに詩文を作り、画を描いて生活の糧としたといわれている。そうした梅花が、晩年になってようやく執筆を思い立ったのが『老婆心話』で、第一冊の冒頭に付される自序に「文政十三年庚寅十二月」とあり、その内容は、天明期から天保期まで半世紀に及ぶ梅花の見聞が、具体的かつ豊富に記されており、その間に活躍した文人の動静や世相風俗の変化などが記されている。
○水澆麦話
富士山の南に天間村と云あり。鈴木平十郎と云名主役の家に至り、六七日つゝも両度行て滞留なしき。是富士真下にて仰き見は目前突出す。潤川といふあり.清水潺々と流出つ.寒中水至て温暖、湯の如く、麦作に澆き入れ根に常にひたひたとめくらさしむ。決て糞壌を用ひず。麦毛青々として秀つ。味尤も美なり。甲州郡内谷村辺も瀑流を澆き入、天間村に同し。尽く富士山下より出る泉水なり。(天岡村は水野侯領分、富士山の半腹にあり。)郡内十ケ市場と谷村との間に流落水あり。水棚を作り、谷村へ水を引く。此一泉、谷村へせき入ること七筋に分れて通る。山村八九村の水利ありと。水棚破損すれは築き立らるゝに、公辺より千金の費用を出さるゝと云。余流、大飛瀑たり。余碑石を立。
瀑流知幾懸。 |
水棚引澆田。 |
雷吼降巌石。 |
籠跳走谷川。 |
沫飛常起雨。 |
瀾碎己生煙。 |
請看山村利。 |
全存此一泉。 |
藤堂良道題并書 |
漂流の辺寵石寺不動堂小詩碑あり。文政八年乙酉十一月に建つ。此瀑に芭煮句、
いきほひあり氷柱きへては瀧つ魚 はせを
此短冊、谷村嶋島某の家に伝て今にあり。谷村は御当代初め頃迄は鳥居彦右衛門元忠の居城にて、勝山城(と)こそ申たりと。鳥居の家臣に仏祖五兵衛といへるあり。此仏祖の門に入て、芭蕉禅学悟道をせしといへり。蕉翁行脚の初め甲州を以先とせられしと云。谷村の名主加藤とへる老人の咄し伝へをきゝて記す。
○谷村御官話
勝山城は鳥居元忠之領也。神君甲州始て御巡見被遊候時に御休息之殿ありき。共処を土人恐敬して耕事なし。今小祠を建て、谷村の人民御毎歳四月十七日祭会す。余良道、文政八年谷村に淹留す。土人其小祠傍へ、其故を碑になさんと云。辞すれともきかす。其文日、
恭惟
東照神君。龍興干戟之間。一麾之天下廉然従之。
已一統海内。上奉尊
天朝。下撫育万民。四海安寧。国家豊饒。二百有余
年于此矣。実可謂聖治也矣。謹案旧譜。
天正十七年。歳次己丑。九月廿六日。
神君親巡甲州都留郡。中窪根津等之諸地。時
鳥居元忠。敬而奉訝
大駕於勝山城。献白銀綿漆等若干云。後勝山城
廃。而為公邑。而今有
神君憩息之処。土人敬懼。而不耕。所謂甘棠勿翦
之意也。遂作遺埒。建小祠。谷村人民。水旱
疾疫。凡有求則祷焉。必有瑞応矣。毎歳四
月十七日。賽会以祝太平。土人請書其事于石。
困而謹為記。
文政八年歳次乙酉十一月藤堂良道恐々僅々謹撰並書
(老婆心話より)