秋 元 泰 朝(あきもとやすとも)

秋元泰朝画像(日光照尊院蔵)  泰朝は、天正8年(1580)藩祖長朝の嫡子として深谷に生まれ、幼名を牛坊といった。
 天正18年(1590)人質として籠っていた小田原城から脱出し、文禄元年〈1592)初めて家康に拝謁し、父長朝とともに家康に仕えた。
 関ケ原の戦いの功により500石を与えられ、慶長8年(1603)家康の上洛に従い、従五位下、但馬守に叙せられた。慶長14年(1609)松平正綱、板倉重昌とともに御近習出頭人として家康の側近となる。
 大坂冬の陣の際の大坂城総堀埋めの功により5千石を与えられ大番頭を兼ね、さらに翌元和元年(1615)大坂夏の陣の後の残党討ちのため家康より「無之字槍」を与えられ、代々秋元家の家宝として受け継がれていった。                       
 元和3年〈1618)、家康没後の日光改葬の際には松平正綱とともに日光造営にたずさわり、この後寛永11年(1734)の大造営の際には造営奉行として諸社殿の造営を担当した。
 家康死後は2代将軍秀忠、3代将軍家光の側近として仕えた。
 元和8年〈1622)、泰朝は父長朝の隠居に伴い1万5千石で家督を継ぎ、寛永10年(1633)1万8千石で甲斐国谷村(現都留市)に移封となる。一方、泰朝は総社領内において父長朝の用水事業を受け継ぎ、さらに谷村転封後も領内で用水開削や養蚕の奨励などを勤めた。
 寛永19年(1642)没し、谷村城下の泰安寺に葬られるが、のちに光巌寺に改葬された。享年63歳。室は大河内秀綱女。
【詳しく知りたい人】
都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会
都留市史 資料編 古代・中世・近世1 1992 都留市史編纂委員会
滝本光清 「都留郡の領主上・下巻」 1995
  「秋元氏の門閥と閨閥」『論集郡内研究』1992 都留市郷土研究会
館林市教育委員会『秋元家の歴史と文化』1992
高取堅二『谷村藩主秋元公三代と日光東照宮』郡内研究第8号都留市郷土研究会
秋元家譜(校訂復刻版、岡谷繁實著)2001 秋元谷村藩研究会
秋元家甲州郡内治績考 1996 都留市教育委員会