茶 壺 道 中(ちゃつぼどうちゅう)

谷村城下町絵図(山頂部分に御茶壺御殿が記されている。)  宇治の茶師に命じて作らせた将軍家直用のお茶を運ぶ「宇治採茶使」の一行を、「御茶壷道中」と呼ぶ。旧暦の4月頃容器となる茶壷を携えて江戸を出発。宇治にて新た調達した新壺を加えて茶詰め行い再び江戸に戻るのは土用三日前くらいで甲州街道を利用した場合帰路13日を要した。
 この茶壷道中が、制度化されるのは寛永9年(1632)で、実際に歩行頭が年番で宇治採茶使をつとめるようになったのは寛永10年(1633)からとされる (『有徳院殿御実紀』)。 
谷村城下町絵図(勝山城部分 御茶壺蔵・御茶茶替蔵と記されている)  このことは『大猷院殿御実紀』巻廿二、寛永10年2月19日の項に、「歩行頭朽木与五郎友綱、神尾宮内少輔守勝、近藤五左衛門用行、安藤次右衛門正珍巡年に宇治茶壷の事奉はる」とあり、同紀附録巻三にも「歩行頭して、宇治採茶の事にあづからしむるは、寛永10年2月朽木与五郎友綱、神尾宮内少輔守勝、近藤五左衛門用行、安藤次右衛門正珍巡年に宇治にまかり、茶壷の事とり行うべしと命ぜられしより起りしなり。」とある。

 茶壷道中と谷村関係年表(『徳川実紀』より)
慶長18年(1613)
3月30日
日下部五郎八宗好採茶の事奉り宇治に赴く。
寛永10年(1633)
2月19日
歩行頭朽木与五郎友綱、神尾宮内少輔守勝、近藤五左衛門用行、安藤次右衛門正珍巡年に宇治茶詰の事奉はる。
3月 4日
歩行頭朽木与五郎友綱宇治茶詰の事命ぜられいとまたまう。この月(3月)加藤肥後守忠広が伏見の邸宅府庫を引うつして、宇治の上林峯順勝盛が宅地に構造せられ、茶庫並番所とせらる。小堀遠江守政一、権左衛門政尹これを監せり。
寛永18年(1641)
3月朔日
歩行頭石野八兵衛氏照宇治採茶奉りて暇賜ふ。数寄屋のともがらも同じ。
7月 7日
次に歩行頭石野八兵衛氏照宇治より帰謁す。
10月 5日
歩行頭石野八兵衛氏照甲州へ茶壷とりにまいるとて暇給ふ。
10月 8日
歩行頭石野八兵衛氏照甲府よりかへり参る。
慶安2年(1694)
3月朔日
歩行頭岡部小次郎忠次宇治採茶のいとま下さる。
7月29日
御茶壷を甲州郡内より持参するとて、歩行頭岡部小次郎吉次この事うけたまはる。
8月朔日
歩行頭岡部小次郎吉次甲州郡内より帰り参る。
慶安3年(1650)
3月22日
松平伊豆守信綱は茶壷のことを掌り、阿部豊後守忠秋は刀剣のことを掌るべしと命ぜらる。
3月26日
歩行頭大久保荒之助忠辰宇治採茶の暇給ふ。茶道等もおなじ。
4月27日
この日諸老臣に宇治茶を試みしむ。
6月25日
歩行頭大久保荒之助忠辰宇治より帰参す。
承応3年(1654)
10月14日
歩行頭小出越中守尹賀に茶壷のこと命ぜられ、甲州谷村につかはさる。(尾張記、紀伊記)(国初には宇治の茶をとる事、歩行頭京にまかり、その茶を壷に収め、愛宕の山頂に納め、一夏をすごして冬にいたり。江戸に持かへりしが、中頃より愛宕をとゞめられ、京より直に甲州谷村へつかはし、夏中をかれたりしとぞ。それも今はまた変じて、府城富士見櫓に置るゝことゝなりしといへり)(数寄屋方傳)
延宝4年(1676)
6月10日
御側松平因幡守信興に茶寮の事つかさどらしめらる。
天和3年(1683)
4月26日
徒頭永見甲斐守垂直宇治採茶の暇給ふ。
8月26日
徒頭小出下野守守里、甲州谷村へ茶壷とりにつかはさる。
9月 7日
徒頭小出下野守守里甲州谷村より帰謁す。山城国宇治の里の茶めさるゝ事は、寛永9年よりはじまりて、そのかみは茶道頭一人、坊の地は代官所よりこれを供し、私領は領主々々よりあつくもてなし、其をごそかなるさまたとふるにものなし。厳有院殿の御時より、茶壷を愛宕山に収むる事はとゞめられ、甲斐国谷村に収め置て、護送の人は皆府にかへり。 秋にいたりまたかしこに赴きて、携へかへる事とせられしかど、猶駅路の費、役夫の労少からず。 公かねて其よししろしめしければ、道すがら護送の者ともを饗する事をやめられ、また徒頭の警衛をもとゞめられて、二条城に在番する大番一人をそへらるゝ事となりしに、元文3年(1738)より、谷村に収置事もやみて、今は京よりたゞちに府に送り、富士見の櫓にいれ置るゝ事となれり。かゝりし後は、行役苦をはぶく事、少からざりしとなむ。
【詳しく知りたい人】
都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会
村井康彦『御茶壺道中』都留市歴史史料集(二)1976 内藤恭義、羽田富士男
『茶壺道中誌』(其の一其の二其の三其の四其の五)1990 都留市
滝本光清 「『茶壺道中』と谷村」 郡内研究第10号 2000 都留市郷土研究会
鈴木茂治「甲府日記に見る御茶壷道中」 郡内研究5号 1992 都留市郷土研究会