秋 元 喬 知(あきもとたかとも)

秋元喬知画像(光厳寺蔵)  喬知は、慶安2年(1649)戸田忠昌の長男として生まれた。母は秋元富朝の長女で、喬知は富朝の外孫にあたる。はじめ喬朝と称し、富朝の養子となった。明暦3年(1657)富朝没後9歳で家督を継ぎ、初めて4代将軍家綱に拝謁した。
 万治3年(1660)従五位下、但馬守に叙せられ、寛文5年(1665)摂津守に改めたが、貞享2年(1685)再び但馬守となった。
 喬知は幕府内において次々と役職に就き、延宝5年(1677)には奏者番となり、5代将軍綱吉のもとで、天和元年(1681)には寺社奉行を兼ね、その翌年には若年寄となった。
 さらに元禄12年(1699)から老中となり幕政を取り仕切った。また、父富朝から継いだ石高も当初の1万8千石から次々と加増され、宝永元年(1704)には5万石となって武蔵国川越(現川越市)に移封し、さらに正徳元年(1711)には1万石を加増され6万石となった。こうした喬知の急速な昇進の背景には実父戸田忠昌の影響力も大きく、さらに江戸城三の丸の造営や小石川御殿の普請、護国寺や東叡山中堂、将軍家綱の仏殿などの造営、元禄大地震後の復旧普請などの功績が認められたためであった。
 また、川越転封後の宝永5年(1708)には禁裏造営の奉行を命じられ、その功績により翌年天皇から太刀などを拝領した。
 喬知はこの他、越後騒動の際の高田城受取(天和元年)の任務に就いたり、綱吉に論語を講義するなど側近として活躍した。喬知が老中の時に起きた事件としては、赤穂事件や絵島事件が有名であり、その裁断に大きく係わっていたことが伝えられている。
 さらに、宝永4年(1707)から宝永7年にかけて山城国八瀬村(現京都市八瀬)では比叡山との境界争論が起こり、これに対して老中喬知が八瀬村勝訴の裁断を下し、その報恩として村人によって喬知を祀った秋元神社が建立されたことも伝えられている。
 一方、領内では谷村、川越ともに治水や産業に手腕を発揮し、特に養蚕や織物、特産物の奨励などを行ったが、谷村領内では年貢減免を要求した名主が処刑される事件も起きている。
 正徳4年〈1714〉没し、総社光巌寺に葬られた。享年66歳。室は秋元忠朝(泰朝二男)女。
【詳しく知りたい人】
都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会
都留市史 資料編 古代・中世・近世1 1992 都留市史編纂委員会
滝本光清 「都留郡の領主上・下巻」 1995
「秋元氏の門閥と閨閥」 『論集郡内研究』 1992 都留市郷土研究会
館林市教育委員会『秋元家の歴史と文化』 1992
谷村藩主秋元公三代と日光東照宮 1998 高取堅二