祖 暁 禅 師(そぎょうぜんじ)
都留市金井から茅が坂の旧道を300メートルほど登ると、昔は大奈良という小さな集落があった。
曹洞宗の名僧祖暁禅師は、大奈良の佐藤家の2男として寛文7年(1667)に生れ、幼名を太郎といった。 7歳のとき、金井の江西院(現在廃寺)の一山徹公について得度して仏門に入り、21歳のとき加賀大乗寺の良高禅師について修業した後、よき教導を求めて諸国を行脚して道を求めた。
元禄5年(1692)得度の師徹公和尚が老齢のため江西院に帰り、元禄7年上谷村の法泉寺の第8世住職となり、宝永3年(1706)師のあとを継いで江西院の住職となった。
その後相模(神奈川)の松石寺の住職として転任し、正徳4年(1714)駿河(静岡)安部郡の領主本多信門に招かれて秀道院の開山となり享保8年(1723)彦根(滋賀)の井伊家7代直惟公に招かれて清涼寺の住職となった。享保11年禅師は秀道院に戻り、同11年65歳で入寂した。
大奈良の太郎から、彦根の清涼寺住職となり、曹洞禅門の名僧として多くの伝説と遺文墨跡が残されている。
宝泉寺(都留市上谷)のかがめや地蔵の伝説に「宝泉寺の境内で石屋さんが困って考え込んでいるので、用事を終えて戻ってきた祖暁禅師がその理由を聞くと、でき上った石地蔵を厨子におさめようとしたが厨子より地蔵の方が3寸(10p)ほど高く、おさめることができず思案しているとのことであった。禅師は石地蔵の頭をなでながら、かがめや地蔵、かがめや地蔵というと、地蔵は少し頭をうつむけたので、めでたく厨子におさまった」とのことである。
「甲斐国志』に、「元禄十二己卯年四月二十四日開眼ノ掲二言フ、汝元来大幡山ノ石、我ハ是久遠実成ノ仏、曲窮ヤ地蔵ト、是レヨリ石像少シクカガメリト言ヒ伝フ」とある。
この伝説は、祖暁禅師の徳が高く、法力のあらたかなことを、地元の人々が石地蔵にたくして語り伝えられたものと思われる。
- 【詳しく知りたい人】
- 郡内研究 第5号 「祖暁禅師とカゴメの童謡」窪田薫 1994 都留市郷土研究会
甲斐の祖暁禅師(其の一・其の二) 1975都留市教育委員会
都留市歴史史料集(二)「甲斐の祖暁禅師について」窪田薫 1976 内藤恭義
甲斐国志 第4巻 士庶部 1972 雄山閣