高山 傳右衛門繁文(たかやまでんえもんしげふみ)

高山傳右衛門の墓(川越市本応寺) 高山傳右衛門繁文(俳号麋塒)は、慶安2年(1649)6月20日秋元家家老高山文左衛門孝繁の2男として甲州谷村に生れ、童名を彦四郎、始め繁実、次に繁元、のち繁文と改めた。
柳梢(麋塒の別の俳号) 麋塒の家系は代々秋元家の家老職で、繁文は幼少より江戸定府の家臣として喬知に仕えていたが、長男三左衛門繁孝が万治3年9月20日、20歳にて没したため500石の家督を継ぎ、寛文12年 (1672)12月28日、24歳のとき家老職に就任した。
 甲斐国志によると、貞享2年 (1685)4月に喬知が岩殿山円通寺を改修した折の棟札に城代高山傳右衛門繁文と書かれているので、この年以前に城代家老に就任していたことが知れる。
 繁文は喬知と同じ甲の生れで親しく、かつまたその人柄と政治的手腕が認められ重用され、喬朝の増禄にしたがって500石の家禄からついに1,200石に加増され、国家老上席にまで累進した。「秋元喬朝公伝」に、「公或る日高山傳右衛門繁文、岩田彦助広甫二人を召され、我等事務繁げきなれば家政かず、就ては其許ども二人心を合せ万事申談し、家政向念入取計ふべし、傳右衛門は国にありて国の政事を取計ふべし、外にも年寄共あれども、別けて二人を頼むとの仰せありて、二人に御盃賜りける」とある。
 かくて麋塒は国家老となり「秋元に過ぎたるものが二つあり、無の字の槍に岩田彦助」と謳われた江戸家老岩田広甫と共に一代の名家老と称された。
幻世(出家後の号) また、繁文及び高山一族は、神仏を信仰する念が深く、谷村、川越の神社仏閣に寄進したものが現在にまで多く残されている。
 正徳4年 (1714)8月14日には、繁文が永年厚恩を受けた喬知が永眠している。ここに、この月28日、行年66歳を以て藩主に殉じ、27日の法要をすました28日に、静に剃髪して法体となり、その回向に余生を送った。
 喬知に遅れること5年、享保3年(1718)2月7日に繁文は没した。行年70歳であった。

幻世(出家後の号)書簡

【詳しく知りたい人】
小林貞夫『芭蕉の谷村流寓と高山麋塒』 1978
都留市史 資料編 古代・中世・近世T 1992 都留市史編纂委員会