中 井 清 太 夫(なかいせいだいゆう)

 天保4年(1833)の飢饉は、「5月〜8月月の間冷気が続き、その上暴風雨が頻発して未曽有の凶作となり、3年間に渡る凶作により諸人は困窮し、谷村長安寺の門前に死者およそ100人余、所々に捨子数しれず」と、「下和田村仕立屋宗兵衛記録」に当時の惨状が誌されている。
 江戸時代の飢きんは、正に言葉に尽せないこの世の地獄であった。ときの代官中井清太夫は、上飯田代官より安永6年(1777)甲府代官に就任し、天明4年に谷村代官を兼務し、郡内領を併せて支配するようになった。
 代官は民政を直接担当し、飢きんの対策は重要な任務であった。これには応急の救済と平常時の備荒施策とがあり、災害の場合には全責任を持っている代官の臨機応変の行政能力が大きくものを言った。
 清太夫が農民の夫食(食料)としてじゃが芋を甲州へ導入した確実な記録は見当らないが、伝えられている所では、甲府代官時代、幕府の許可を得て種芋を九州から取り寄せ、先ず九一色郷の村々に栽培させたといわれている。
 天明4年、清太夫は郡内領を支配するようになり種芋を九一色郷から取り寄せて栽培し、各村に奨励した。結果は予想以上の収穫があり、じゃが芋は甲斐一国に広まり、さらに信濃(長野県)、越後(新潟県)、上野(群馬県)、下野(栃木県)、武蔵(埼玉・東京・神奈川)、秩父(埼玉県)等まで急速に普及していった。
 信濃・越後・上野・下野ではこれを「甲州芋」と呼んでいるので、甲州から伝わったことは明白である。
 馬鈴とは馬の飾りにした鈴のことで、鈴の形が馬鈴薯とよく似ているところから付いた名称といわれている。
 高野長英の書いた「二物考」(天保七年)には馬鈴薯の和名としてジャガタライモ、甲州イモ、清太夫イモ、清太イモなどと呼ばれた。
 じゃが芋の原産地は、ペルー・チリなど南米のアンデス山中にあった。16世紀の初めにスペイン人によって初めてヨーロッパに輸入され、さらにポルトガル・スペイン人の東進につれて忽ち東洋に伝えられた。日本へは、天文年間(16世紀ごろ)に来航した彼等によって沖縄や種子島にもたらされた。慶長年間には九州にも進出するようになった。
 彼等のもたらした種芋が、彼等の東洋進出の最大拠点であったインドネシアのジャカトラ(ジャワ島のバタビヤの旧名)のものであったため、当時一般には、ジャガトラ芋と呼ばれるようになった。
 天明7年(1787)4月、江戸へ戻る清太夫を多くの人達は感謝の気持をもって国境まで見送ったと伝えられている。
 じゃが芋によって貴い命を救われた人々は、のちにこの芋を「清太夫芋」と名づけた。
 上野原町八米の龍泉寺に50年程前までは、清太夫を「芋大明神」として祀って、毎年芋祭りを開催していたがいつの間にか絶えてしまった。しかし、檀家総代を委員とする再建委員会ができ、地域住民から寄付を募り、昭和56年10月4日鎌倉建長寺中川貫道管長の書により「芋大明神」の碑と由来碑が建立された。

【詳しく知りたい人】
小林貞夫 「神に祀られた芋代官」 郡内研究創刊号 1987