川 越 藩(かわごえはん)

氷川神社奉納絵馬 秋元氏奉納(正徳5年) 宝永元年(1704)4代喬知は谷村から5万石で武蔵国川越に入封し、のち1万石を加増され6万石を領した。 喬知入封以前の川越は5代将軍綱吉の御側用人柳沢吉保が城主で、柳沢氏の甲府転封に伴い喬知が川越に入封した。秋元氏の川越支配は喬知、喬房、喬求、涼朝と4代続き、63年間に及んだ。
 この頃大地震や富士山噴火などの天災により領内が動揺していたが、喬知は畑作地帯の殖産増進を試み、その一方では秋元家の家老たちが甲斐国より諸職人を招き、養蚕の奨励や絹織物などの育成に努めた。「秋元家に過ぎたるものが二つあり、無の字の槍と岩田彦助」とうたわれた岩田彦助はこの頃の家老の一人であった。
岩田彦助墓(養寿院) 正徳4年(1714)喬知が没した後は喬房、喬求と続くが、寛保2年(1742)後を継いだ7代涼朝は喬知に続き、幕府の要職を歴任し老中となった。涼朝が襲封してまもなく川越領内に大洪水が起こり、領内復興のため地主や商人たちに領民救済を奨励したことが伝えられている。
 しかし、一方では藩財政が窮乏したために倹約令を頻発するが度重なる出費で財政を立て直すことが困難を極めていた。さらに農民一揆である明和の伝馬騒動も領内で起こり藩政を揺るがせた。
 明和4年〈1767)病気を理由に重職を退いた涼朝は出羽国山形に転封となり、翌年養子永朝に家督を譲り隠居した。涼朝転封後の川越には前橋城から松平(越前)氏が入封した。
【詳しく知りたい人】
都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会