天 野 海 蔵(あまのかいぞう)

 文化11年(1814)境村茂甫の長男として生まれた。幼少から豪胆、負けずぎらいで19歳で家督を継いだ。
 御殿場を経て伊豆方面へ手を広げ、年とともに勢力を延ばした。
 韮山代官江川太郎左衛門英竜(担庵)大場の久八等当時の勢力者との親交も厚く、嘉永6年(1853)8月に、品川沖の台場(砲台)の建設に当り、天野海蔵、大場の久八の二人が人夫頭をつとめ見事に難工事を完成させた。この担庵の事業に対し金3千両(約2億円)を献金し愛国の至情を示した。
 また、私財を投じて社会救済事業に専念し、安政元年(1854)の大地震により、伊豆下田は大津波にみまわれた。海蔵は、この救済のため白米500俵、鍋176個、ふとん500枚を贈った。その鍋は「開三鍋」といって愛用されたと語り継がれている。
 このほか、国防費として金千両を上納し苗字帯刀を許され、文久元年(1861)秋には、和の宮御下向の御用金として金500両、明治6年皇居災上の際にも金100両を献納している。
 また、安政末期から江戸へも進出し、2、3の店を経営し、猿橋には造り酒屋を営み、自宅の水車で白米にしたものを、馬力で毎日猿橋へ運んだ。その頃1年間の小作米は、大俵で2千俵あったといわれている。
 慶応3年(1867)の秋、徳川方の栗原大蔵の一隊が江戸を脱走し、駿河をめざして逃走する途中、境の天野宅を襲い、旅費を強要し、遂には蔵や家屋までも破壊し乱暴狼籍を極め、山中へ逃亡した。今も天野家の家具には、その時鉄砲でつけられた跡が残されている。
 明治の世となってからは、文明開化の機運をいち早く悟り、天野屋という回船問屋を開き活躍の行動圏を拡げたが、明治16年(1883)店を番頭にまかせ故郷の人となった。
 明治6年には、山梨県から秋山村を通る東京新道の開拓の建議書を政府に提出している。
 明治18年桂村(東・西桂村)村長に就任したが、翌年その職を辞している。推薦されて衆議院議員の候補者にあげられたが、固く辞して受けず、その費用を村民のためにと洋風建築物を建て集会の場として提供した。これが現存する「種徳館」の建物で、門構えから建物の総てが桧作りで、1・2階とも80畳の広さがあり公会堂風の建物である。
 明治33年11月22日、海蔵は87歳で天寿を全うし波瀾に富んだ生涯を閉じた。
【詳しく知りたい人】
羽田富士男「天野開三事績の概要」都留歴史史料集(二)1976 内藤恭義・羽田富士男
棚本安男「天野本家と穂徳館」郡内研究第11号 2001 都留市郷土研究会