
新 倉 掘 抜 き(あらくらほりぬき)
元禄3年(1690)、郡内領主秋元但馬守喬知は、河口湖畔の水害対策と新倉村(富士吉田市)および下流一帯の新田開発のため船津(河口湖町)より赤坂(富士吉田市)まで約4kmの嘯山(うそぶきやま)の山麓を隧道により掘り抜く工事を計画した。
元禄14年(1701)まで12年かけて両方から掘り進んだが、河口湖側の方が逆に9mほど低く、遂に通水できず莫大な労役をかけたままで工事中止となり、宝永元年(1705)秋元氏の転封により工事は放棄された。
その後、弘化4年(1847)暴風雨のため坑道の一部が露出し、新倉村で着手することになった。
嘉永6年(1853)までの7年間の工事により開田したのは僅かに2町歩に過ぎず、文久3年(1863)より慶応2年(1866)迄の4年間再修工を行ったが、通水量は倍加しただけで開削ま4町6反歩に過ぎなかったといわれる。吉田口および河口湖口とも坑口が保存されている。
- 【詳しく知りたい人】
- 星野芳三 「新倉掘抜の史的概観」『論集郡内研究』 1992 都留市郷土研究会