河口善之助(かわぐちぜんのすけ)

 文久3年(1863)1月7日、谷村の豪農河口善兵衛の長男として下谷244番地に生まれた。
 19歳だった明治15年(1882)7月、巌村の古家広泰らの主宰する鶴北自由党(のちに山梨県内の他の2党と合同して峡中立憲党となる。)を結成し、谷村の横山吉朗らとともに参加し、幹部として奔走した。いわば郡内民権運動の草分けであった。
 明治21年1月、県議会議員に当選、引続き明治23年3月、第6回半数改選により再選し、24年10月まで県政に活躍した。
 明治23年3月には谷村村会議員に当選し、その間名誉職村長として明治26年2月4日から28年9月7日まで2年8ヶ月就任し、村長を横山吉朗に引継ぎ、議員の任期中、明治31年3月15日に行なわれた第5回衆議院議員選挙に出馬し「天下の雨敬」と呼ばれ、若尾逸平と並び称された実業家の巨頭雨宮敬次郎(進歩党)を破って当選した。この時35歳であった。
 しかし、やっとかちとった衆議院議員の椅子も、たった3ケ月足らずの運命であった。
 当時は伊藤博文の内閣時代で、地租増税案が否決されたため、その日6月10日解散が断行されたのである。
 引続き明治31年8月、第6回衆議院議員選挙に出馬して再選し、35年8月まで国政に参画し、中央線開通等地元進展のために尽力した。
 明治38年12月28日、谷村町長に当選し、明治40年4月29日まで就任した。
 その間、甲斐絹同業組合長、有信貯金、山梨農工各銀行、谷村、桂川両電力会社などの重役や、富士馬車鉄道社長などの要職に就任し、郡内地方の産業開発に貢献した。
 昭和8年(1933)11月13日、70歳にて惜しくも逝去された。