満蒙開拓南都留郷移民(まんもうかいたくみなみつるいみん)

 昭和7年3月、満州国建設にともない始まった満蒙開拓団の入植は、昭和11年には重要国策の一つとなり、20年間に100万戸、500万人の大量入植計画がたてられ、翌12年から実施段階に移った。
 南都留郷広富山開拓団は、国策にしたがい、昭和17年6月、道志村の佐藤伝良が団長となり、20年5月までに団員442名の入植をみた。開拓地は三江省(現黒竜江省)伊蘭県広富山の麓で、広富山はその形が富士山に似ていることから名付けられた。
 厳しい気候のなかで荒野を開拓する苦労はあったが、日本の本土と違い、自給自足の生活で平和であった。しかし、敗色が濃くなった19年頃から男子はつぎつぎと召集され、昭和20年の敗戦を境に開拓団の生活は一変した。
 暴徒と化した現地人に全財産を奪われ、日本人収容所への移動の途中では馬賊におそわれ、ソ連軍の襲撃をうけ半数が殉難した。
 殉難碑は、広富山開拓団の生還者が、殉難者264人の霊を慰さめるため、当時の都留文科大学学長であった諸橋徹次先生の選文により、昭和37年11月仲町公園に建立された。
【詳しく知りたい人】
都留市史 資料編 近現代 1993 都留市史編纂委員会