源 頼家(みなもとのよりいえ)

源 頼家 鎌倉幕府の第2代将軍。瀬頼朝の長男。母は北条政子。寿永元年(1182)鎌倉の比企能員邸に生まれる。幼名は万寿(または十万)。能員妻・河越重頼妻(能員の妹)・梶原景時妻らが乳母となる。頼家の安産を祈って源頼朝は諸将に命じて若宮大路の段葛を築造させたという。頼朝の嫡子として武技に優れた青年武将として成長し、建久8年(1197)に従5位上左近衛少将に叙任した。正治元年(1199)正月父の死後家督を継ぎ、鎌倉殿の地位を得、朝廷からは頼朝の遺領継承を認める宣旨を与えられるとともに、左近衛中将に転じ、翌年には従三位左衛門督となる。建仁2年(1202)正月、正3位、同7月従2位征夷大将軍。
 鎌倉殿継承直後、北条氏によって訴訟の親裁を停止され、幕政の実権を北条時政以下13名の宿老会議に奪われた。比企能員の女若狭局との間に一幡が生まれ、比企氏が将軍外戚の地位に立ったため、時政がこれを警戒し、建仁3年8月、頼家の急病に降し、頼家死後に一幡と、頼朝の第2子千幡(実朝)とに諸国地頭職を分譲する案(権力の分轄)を出し、両者の対立を激化させた。その年の9月、比企一族は北条氏に攻められ、一幡とともに滅亡したが、このことを知った頼家は和田義盛・仁田忠常に時政追討を命じた。しかし義盛はこれを時政に告知し、忠常は時政によって誅殺された。孤立した頼家は出家落飾を強いられ、同月29日に伊豆修禅寺(静岡県田方郡修善寺町)に幽閉されたが、翌元久元年(1204)7月18日、北条氏の討手により殺された。
 23歳。墓所は修禅寺境内の指月ケ丘にある。法名は法華院殿金吾大禅閣。
 大幡にある曹洞宗大幡山広教寺は、建仁2年(1202)頼家の命により寿三和尚が鎌倉よりこの地に来て開基となったと寺記に記されている。開山の大川和尚より数代にわたり建長寺の末刹であったが、天文9年曹洞宗石心禅師が住持となり改宗開山となり、八代郡米倉龍安寺末となる。
【詳しく知りたい人】
都留市寺記 1976 都留市教育委員会