北条氏綱(ほうじょううじつな)
北条早雲の長男である氏網は、早雲死去の前年に当たる永正15年(1518)に32歳で家督を継ぎ、武蔵国方面への領国拡大を目指すとともに、本拠を韮山(静岡県韮山町)から小田原へ移し、本格的な相模国経営に取り組んだ。
大永4年(1524)正月、氏網は扇谷上杉朝興の居城である江戸城を攻めるために出陣し、江戸城の守将太田資高(道灌の子)らの内応を得て、同月13日に高縄原(東京都港区)で朝興の軍勢と戦い、これを破った。江戸城を占拠された朝興は武蔵国河越城(埼玉県川越市)へ逃れた。大永5年(1525)2月、氏網は朝興方の岩槻城(埼玉県岩槻市)を攻めて同城を獲得したが、翌年6月には、逆に氏網方の蕨城(埼玉県蕨市)を朝興に攻められて同城を奪われるなど、武蔵中・北部を中心に両者の攻防が続けられた。
また、大永6年(1526)12月には安房国の里見実尭の兵が鎌倉に乱入し、北条軍によって撃退されたが、このときの兵火で鶴岡八幡宮が焼失した。
天文2年(1533)11月には、大磯・平塚辺に朝興軍が侵入して放火したのに続き、天文4年(1535)9月から10月にかけては、氏綱の軍勢が出陣している間隙を衝いて朝興軍が相模に攻め込んできた。このとき相模湾沿いの大磯・平塚・一宮・小和田・鵠沼などの郷村に放火し、大きな被害を与えた。天文6年(1537)4月27日、上杉朝興は河越城において、戦いに明け暮れた50歳の生涯を閉じ、子の朝定が家督を継いだ。天文6年7月11日、氏綱は河越城攻撃に出陣し、15日に武蔵国の三木(埼玉県狭山市)で朝定軍と合戦に及んで大勝し、朝定は河越城を捨てて松山城(埼玉県吉見町)に逃れた。河越城を押えたことで、氏綱は武蔵国中部方面の掌握に一応の成功を収めた。
さらに天文7年(1538)10月、下総国国府台(千葉県市川市)において、古河公方足利義明・里見義尭の連合軍は氏網とその子氏康の軍勢と戦った(第1次国府台合戦)が、これに敗れ、義明は討死、義尭は自領の安房国に逃げ帰った。 このほか、北条氏は、駿河国の富士川方面へも出陣して今川義元を破るなど各地に勢力を伸ばし、この時点で伊豆・相模・武蔵・上総・下総と駿河東部地域にまで支配領域を拡大した。このように、氏網は江戸城攻略をはじめとする一連の合戦に明け暮れる一方で、みずからの領国経営にも力をそそいだ。
氏網は、家督を継いだ直後の永正17年(1520)には、早くも小田原・鎌倉方面の郷村に対して検地(土地の調査・測量)を実施し、領国経営の基盤作りを開始したほか、北条氏の権威の象徴として、後まで用いられることになる虎の朱印の使用を開始した。
また、大永4年(1524)前後には姓も伊勢氏から北条氏へと改姓し、みずからも官位に付くなど、北条家および当主氏網の権威を高めるための動きが顕著に認められるほか、寺社の保護や復興にも力を入れたことが知られている。北条氏が用いた郡制は、相模国は古くは7郡または8郡に区分されていたが、たとえば、天平7年(735)の『相模国封戸租交易帳』には、足上・足下・余綾・大住・御浦・高座・鎌倉の7郡がみえ、また、延長5年(927)成立の『延書式』では、この7郡に愛甲郡が加わっている。
小田原北条氏の場合は、これら従来からの郡名に替わって西郡・中郡・東郡の名称を多用し、これに三浦郡と津久井郡を加えた5郡制を重視している。北条氏は、郷村に対する陣大役・大普譜役・棟別銭の賦課のほか、職人衆の把握なども、この単位で行なっており、郡代も置いていたらしい。3郡の範囲は、西郡=足柄上郡・足柄下郡、中郡=余綾郡・大住郡・愛甲郡、東郡=鎌倉郡・高座郡である。
北条氏綱は、甲斐にもたびたび侵攻した。享禄3年(1530)4月23日、都留郡に進入し、北都留郡矢壺坂で小山田信有を破る。天文4年(1535)8月、都留郡に進入し、小山田衆。勝沼衆を打ち破る。
- 【詳しく知りたい人】
- 都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会