武田信玄(たけだしんげん)

◇信玄誕生
武田信玄 信玄は大永元年(1521)11月3日、甲府の武田館の詰城である要害城で生れた。
 その状況を具体的に物語っているのは、『高白斉記』であって、大永元年条に「同9月九島ノ凶事、16日乙丑、亥刻富田落城、寅刻御前御城へ御登り、10月16日丁未、於飯田合戦御勝利、同11月3日辛亥、戌刻晴信公誕生、蟇目曾板三河守縄長相動、」とあって、日時を追ってその経過がわかる。
 これによると、9月に入って駿河今川氏の重臣である遠州土方城主福島正成らが甲州へ攻め込み、16日には大井氏の居城である巨摩郡富田城(甲西町戸田)が落城したので、懐妊していた大井夫人は大事をとって要害城に登り、飯田河原合戦で勝利した後の11月3日戌刻(午後8時)に晴信が誕生している。蟇目役とは祝儀の使者であって、曾祢三河守縄長は、後に活躍する昌長の父といわれている。同記にはつづいて11月23日の上条河原(中巨摩郡敷島町)合戦で信虎が大勝後、27日に積翠寺より母子が武田館へ戻ったとある。
 ここに積翠寺とみえることや、同寺に産湯跡などがあることから、晴信の在誕生地を同寺とする意見もある。

◇元服と初陣
 元服については、やはり『高自斉記』の天文5年条に「三月、武田晴信公元服、十六歳、義晴ノ誇ノ晴ノ字ヲ賜フ」とあって、『甲陽軍鑑』でもほぼ同様の記述をしているが、この時に「信濃守・大膳大夫」となったとあるのは誤りで、おそらく元服時には、父信虎の最初の官途であった従5位下左京大夫に任ぜられたとされる。
 さらに信濃守を称するのは後述するように、天文19年(1550)頃からのことで、この時、将軍足利義時の偏諱をうけて晴信と名乗ったことは確かとされる。大膳大夫の初見は、天文11年(1542)9月24日といわれており(守矢家文書)、これもはっきりした徴証はないが、家督相続の直後に大膳大夫を称したと思われる。
 信玄は翌天文6年(1537)2月、今川義元の斡旋によって、公家三条公瀬の二女を正室に迎えることとなった。
 信玄の初陣についての唯一の記録は『甲陽軍鑑』(品18)のみである。天文5年11月21日に信虎が信濃佐久郡を攻めた折、海の口城を34日間も包囲したにもかかわらず落城できなかったのを、12月26日、敗軍として残った晴信が一夜のうちに落城させたというものである。海の口城の城将は平賀源心であり、この時期に信虎が佐久郡へ出兵していたかは疑問とされている。

◇家督相続
「勝山記」に次のように記されている。
 此年六月十四日ニ、武田大夫殿様、親ノ信虎ヲ駿河国へ押越申候、余リニ悪行ヲ被成候間、加様被食候。去程二地下・侍・出家、男女共喜致満足候事無限。とあって、晴信は親を駿河へ押し込めたが、信虎に悪行が多かったので、人民が喜んだとしている。
 同時代の記録である『塩山向岳禅庵小年代記』にもほぼ同様な記述がみえており、両者の見方が一致している点は注目される。つまり、34年続いた信虎政権は末期的状況を呈していたものであり、加えて、数年前から開始された対外侵略の重荷が家臣・領民の負担になっていたといわれている。
 こうして21歳で家督相続を果した晴信は、クーデターの3日後の17日にはつつじが崎館へ入り、28日には家督相続の祝儀を催した。領主交替が異常なもとで実現されたので、正式な継目の安堵などの発給はみられず、さしあたって信虎の政策を踏襲したといわれている。
 外交的には、相続直後の天文10年には目立った動きはみられないが、翌11年に入ると、7月には同盟者である諏訪頼重を急襲し、諏訪盆地へ進出して、後の信濃経略の第一歩を踏み出した。この時期には、駿河の今川氏とは同盟関係が固く、それを通じて相模の北条氏網とも友好関係を保っており、当面の目標は信濃に向けられた。

◇諏訪・佐久への侵略
 家督をついだ武田信玄(晴信)は信濃諏訪郡をねらった。諏訪は頼満の代に諏訪氏が統一したが、頼重が連年兵を動かしたので人々の心は彼から離れていた。天文11(1542)年7月1日、武田軍が田沢(長野県茅野市)あたりに陣取ると、翌日、武田と手を結んだ高遠頼継軍が諏訪に侵入した。上原城(茅野市)で支え切れないと思った頼重は桑原城(長野県諏訪市)に移ったが、4日に和談に応じて開城し、甲府で21日に切腹させられた。
 高遠頼継は福与城(長野県箕輪町)の藤沢氏などと結んで、同年9月10日に兵を挙げ諏訪下社と上社を占領した。信玄は11日に板垣信方を諏訪にむかわせ、自身も頼重の遺児を擁して19日に甲府を立ち、武田軍は25日に安国寺(茅野市)門前宮川のほとりで圧倒的な勝利をえた。
 頼継はかろうじて高遠に逃げ帰った。諏訪郡を平定した信玄は翌年5月に上原城を修築して、板垣信方を諏訪郡代にして在城させた。
 天文14年4月、信玄が高遠攻略の軍を動かし、15日に杖突峠に陣を張ると、頼継は17日に城をすてて逃亡した。その後、武田軍は藤沢頼親を攻撃し、6月10日に頼親を和議に応じさせ、上伊那も支配下においた。
 これより先の天文12年9月、信玄は大井郷(長野県佐久市岩村田)の大井貞隆を討つため甲府を出発し、19日に貞隆を生け捕りにし、翌日望月一族を殺した。信玄は天文15年5月、内山城(佐久市)によって抵抗する貞隆の子貞清討伐の軍を動かし、20日に降伏させた。貞清は城を明け渡し、翌年5月に甲府へ出仕した。佐久郡で志賀城(佐久市)の笠原清繁だけは、西上野の豪族や関東管領上杉憲政などの支援をうけて信玄に抵抗したので、天文16年7月に信玄は出兵した。武田軍は24日から攻撃を開始し、結局、志賀城は8月11日に至って、城主父子や城兵300人ばかりが討死して陥落した。
 この戦いで小山田勢の活躍は目覚ましく、敵将笠原清繁夫人を小山田信有が拝領して郡内に連れ帰ったと『勝山記』に記されている。

◇信府奪取
 ついで武田信玄は信濃の北から東に勢力をもつ村上義清と争った。天文17(1548)年2月1日、村上氏の根拠地の坂本(長野児坂城町)にむけて出馬し、上田原(長野県上田市)に陣を張った。一方、義清も千曲川をはさんで武田軍と対峙した。14日、両軍が上田原で激突したが、武田軍は地の利を知りつくしていた村上軍に惨敗し、板垣信方などの有力武将が戦死して信玄も負傷した。この武田軍敗戦の中にあって小山田出羽守信有の郡内勢が目覚ましい奮闘をしたことを『勝山記』は「小山田出羽守殿無比類働被成候」と伝えている。武田軍の惨敗は信玄に抵抗する信濃武士を勇気づけ、武田氏の占領地に動揺をもたらした。義清は府中(長野県松本市)の小笠原や大町(長野県大町市)の仁科勢とともに、4月5日に諏訪に乱入した。
 佐久でも25日に内山城に放火して過半を焼き、前山城も佐久衆が武田氏の手から取り戻した。
 武田軍はかつて天文14年に福与城の藤沢頼親を攻めたとき、竜ヶ崎城(長野輿辰野町)に出陣した府中の小笠原長時を破り、塩尻(長野児塩尻市)を荒らした。長時は上田原での信玄の敗戦を好機と判断し、4月5日に村上氏や仁科氏、藤沢頼親などとともに諏訪下社近辺に放火した。6月10日にも長時軍は下社に攻め入ったが、迎え撃った下社の地下人たちのために、馬回りの17騎と雑兵100人余りが討ちとられ、長時も傷を負った。
 7月10日に西方衆とよばれた諏訪湖西岸の武士や、諏訪氏一族の矢島・花岡氏らが、長時につうじて諏訪に乱入した。信玄は19日早朝6時頃に塩尻峠の長時軍5000余を急襲し、不意をついて武具をしっかり着ける暇もない敵を一方的に打ち破り、将兵1000余人を討ちとった。武田軍はその直後に西方衆を追討し、彼らの家々に火をかけた。
 こうして信玄は、上田原の合戦でこうむった痛手をいやし、ふたたび信濃制圧に乗り出すことになった。
 信玄は8月18日に小山田出羽守信有を大将として、田の口城(長野県臼田町)を攻略、9月には、前山城を攻めて失地を回復した。そのうえで本格的に松本平に侵入するため、10月4日に村井城(松本市)の普請を開始した。
 天文19年に信玄はふたたび小笠原氏攻撃を開始し、7月15日に武田軍はイヌイ城(場所不明)を攻め破り、勝どきをあげた。これを開いて小笠原方の大城(林城)・深志(ともに松本市)など5カ所の城兵は、深夜にみな戦わずして逃亡し、島立・浅間の2城も降参した。
 この間に小笠原氏のおもだった侍衆が続々と武田方に寝返り、大町の仁科道外も出仕してきた。こうして、信玄は信濃の府中を手に入れた。
 府中を領有した信玄は小笠原氏の本拠林城を破却し、あらたな信濃経略、および松本平を支配する基地として深志城(松本城)の修築を決め、23日に総普請を開始した。

◇村上義満との戦い
 武田信玄は塩尻峠合戦の勝利によりふたたび佐久郡平定をめざし、武田軍は天文17(1548)年9月11日に臼田(長野県臼田町)をでて、前山城を攻め落とし数百人を討ちとったので、近辺の13城も落ちた。翌日も5000人ほどの首をとり、無数の男女を生け捕ったという。翌年8月23日、信玄は桜井山城(臼田町)にはいり、9月4日には平原城(長野県小諸市)に放火した。これら一連の軍事行動により、佐久郡はふたたび武田氏の勢力下にはいった。
 天文19年7月に松本平を手に入れた信玄は、村上義清を打倒するため小県郡へ出陣し、戸石城(長野県上田市)を攻撃しょうとした。8月29日に戦闘が開始され、9月9日総攻撃をかけたが成果をえられず、10月1日退却を開始した。これに村上勢が猛攻撃を加え、武田方は横田高松をはじめおもだった者1000人ばかりが討ちとられた。
 名高い「戸石崩れ」である。義清は小笠原長時を助けて平瀬城(長野県松本市)に進出し、その後、小諸(長野県小諸市)に進み、野沢・桜井山城に放火した。信玄が戸石城で大敗すると、長時は義清の援助で深志城を奪還しようとした。
 10月末、長時が氷室(長野県梓川村)に陣取ると、小笠原氏の旧家臣たちは信玄に味方した者たちの城をおとしいれた。しかし信玄の出馬をきいて、長時は中塔城(梓川村)に籠城した。
 天文20年5月26日、真田幸隆が突然戸石城を落とした。地元出身で戸石城近辺の地形や豪族の事情に精通する幸隆は、謀略によって村上方の武士を武田方に引きこみ、城兵の不意を襲って落城させたといわれている。
 翌天文21年、信玄は小笠原方の小岩岳城(長野県穂高町)攻略のため甲府を出発し、8月12日に城主を自害させ、500余人を討ちとって落城させた。これによって小笠原氏が領有していた安曇・筑摩の両郡も、ほぼ信玄の支配下にはいった。
 天文22年4月2日に信玄は苅谷原城(長野県四賀村)を攻め落とし、夕方には塔ノ原城(同明科町)も開城させた。4月6日、武田勢の先陣が村上義清の本拠葛尾城(長野県坂城町)の攻略にむかった。9日に城が戦わずに落ち、義清は越後の上杉謙信を頼って落ちのびた。
 信玄は天文23年8月7日、小笠原信定の鈴岡城(長野県飯田市)を攻め落とした。これを契機に下伊那の武士の多くが武田氏にしたがったが、神之峰(飯田市)の知久頼元だけが降伏しなかったので、武田軍は攻撃した。
 武田勢の猛攻によって城は落とされ、頼元父子も捕らえられた。この状況をみて吉岡城(長野県下条村)の下条氏も武田氏に臣従し、下伊那も信玄の支配下にはいった。弘治元(1555)年3月、武田軍は塩尻方面から木曾を攻撃しはじめた。鳥居峠を下った薮原(長野県木祖村)側に砦を築いたが、主力が急遽川中島へむかったため、
 戦線は膠着状態となった。信玄は8月にあらためて木曾に軍を進め、小沢(日義村)川端で木曾軍を撃破した。この敗戦によって木曾義康は信玄に和睦を求めた。

◇上杉謙信との抗争
 天文22(1553)年4月、村上義清は上杉謙信に助けを求め、以前から上杉氏と関係の深かった信濃の豪族も、謙信と結びついて武田信玄に対抗した。謙信は彼らの救援を名目に信玄と戦ったが、実際は信濃が信玄の手に落ちると、根拠地の春日山(新潟県上越市)や領国が危機にさらされるので、そうなる前に手を打ったのである。
 武田軍は4月22日に八幡(長野県更埴市)で、越後勢と村上義清など北信諸士の連合軍5000人ほどと遭遇し、4月23日に葛尾城を奪い返された。信玄は決戦をさけて24日苅谷原にしりぞき、義清は坂本をはじめ小県方面を回復し、塩田城(長野県上田市)にはいった。
 甲府に戻った信玄はその後、佐久口から信濃にはいり、8月1日に和田城(長野県和田村)の城主以下を皆殺しにし、4日には高鳥屋城(長野県武石村)、内村城(同丸子町)を落城させた。翌日塩田城も陥落して義清も逃亡し、武田軍は付近の城16を落とした。武田軍がさらに川中島南部に陣を進めると、謙信は8月に信濃にはいり、布施(長野市)で戦い、9月1日には八幡で武田勢を破った。
 越後勢はさらに筑摩郡に侵入し、4日には虚空蔵山城を落とした。
 天文19年に今川義元夫人である信玄の姉が亡くなったので、天文21年11月に義元の娘が信玄の長男義信に嫁ぎ、今川と武田とのあいだに再度同盟が結ばれた。また今川氏と北条氏は信玄の仲立ちで和睦し、その後両者のあいだで婚約が決められた。
 一方、天文22年には武田と北条とのあいだで婚約になった。
 天文23年7月、北条氏康の娘が今川氏真に嫁ぎ、12月に信玄の娘が北条氏政のもとへ嫁いだ。この際の蟇目役は、小山田弥三郎信有が勤めた。
 こうして武田・今川・北条の姻戚関係による同盟が成立したので、信玄は南と東を気にすることなく謙信との戦いに専念できることになった。
 信玄は北信の武士のみならず、諌信の家臣にまで工作を推し進め、12月、北条城(新潟県柏崎市)の北条高広に挙兵させたが、彼は翌年謙信に攻められて2月に降伏した。また、信玄は千見(長野県美麻村)を占領させ、糸魚川(新潟県糸魚川市)方面からの越後勢の侵入に備えさせた。
 謙信は天文24年4月頃に信濃へ出陣し、7月に横山城(長野市)へ陣取り、信玄に味方した栗田氏がこもる旭山城(長野市)に対時し、信玄は大塚(長野市)に陣取った。
 7月19日に武田軍と上杉軍は川中島で戦ったが、その後両軍は犀川をへだてて対陣した。戦局が膠着し両者とも疲れ、今川義元の斡旋で閏10月15日に講和が成立して兵を引いたが、実質的にはこの戦いをつうじて信玄の勢力が川中島地方の一部にまで浸透した。
 弘治2(1556)年8月、真田幸隆が雨飾城(長野市)を落城させ、小県から地蔵峠をこえて川中島にでる道を確保した。弘治3年、信玄は越後が雪深いあいだは謙信が兵を動かせないことをみこして、兵を北信に派遣した。善光寺の裏山に続く葛山城(長野市)は謙信方の落合一族(葛山衆)の根拠地で、善光寺から越後につうずる道を押さえる要地であったが、2月15日に落城させたので、信玄は善光寺平の中心部を手に入れた。飯縄社(長野市)も信玄に降り、戸隠社(長野県戸隠村)の三院の者は越後に逃げた。
 謙信は4月18日に信濃へはいり、21日に善光寺に陣をしき、山田(長野県高山村)の要害や福島(同須坂市)を奪い返し、25日には旭山城を再興して本営を移した。
 ついで小川(長野県小川村)・鬼無里(同鬼無里村)方面に圧力を加えた。5月13日、謙信は坂本・岩鼻(長野県坂城町)まで攻めたが、戦果をあげられず飯山に引き返した。7月5日、武田軍は意表をついて松本から越後の糸魚川方面に抜ける要衝の小谷(長野県小谷村)を攻略した。この地の占領は謙信を背後からおぴやかすことになった。8月に上野原(場所不明)で両軍の衝突があった。
 永禄元(1558)年冬、信玄は信濃守護職に補任された。当時の守護職はほとんど名目であったが、信玄にとって十分に利用価値のある役職だった。翌2年4月に上洛した謙信は、将軍足利義輝と会見し、正親町天皇にもあった。また関白近衛前嗣と意気投合し、関東公方に迎える約束をした。永禄元年、関東管領上杉憲政は北条氏に攻められて没落し、謙信の厄介になっていた。憲政は立場をよくするため上杉の姓と関東管領の職を謙信にゆずると申し出ていたが、ここに幕府に公認されたのである。謙信が半年も越後を留守にしているあいだに、信玄は北信の大部分を手に入れ、越後へも侵入しようとした。永禄2年5月、信玄が松原諏訪神社(長野県小海町)に越後の滅亡を祈った願文に「釈信玄」と署名したが、これが信玄と記された現存最古の文書である。
 この頃、信玄は川中島の拠点として海津城(長野市松代町)を築き、一方で夫人の妹にあたる三条公の三女が石山本願寺顕如の妻である関係を利用して、本願寺と連絡をとり、加賀・越中の一向宗門徒に謙信が留守をしている越後をねらわせた。

◇激戦川中島
 上杉謙信は永禄(1561)年閏3月16日、鎌倉の鶴岡八幡宮の社前で関東管領の就任報告と、上杉氏の襲名式を行なった。武田信玄は謙信の軍事行動を牽制するため、北信の武士を海津城に集めた。
 そして援軍を小田原に送るとともに、4月には碓氷峠をこえて上野の松井田(群馬県松井田町)に陣を進め、借宿(同長野原町)に放火などして擾乱工作を行なった。
 謙信は永禄4年6月下旬に関東から越後に帰ったが、8月29日には大軍を率いて信濃に出陣した。
 一方、信玄も軍を率いて対応した。海津城を拠点とする武田勢に対し、上杉勢は妻女山(長野市松代町)に陣をしいたが、9月10日の早朝に千曲川を渡って八幡原(長野市小島田町)で武田軍と激突した。武田軍ははじめ苦戦したが、妻女山にむかった一軍がかけつけ、側面から上杉軍を攻撃し退却させた。この戦いで武田方では信玄の弟の信繁が戦死し、有名な武将も多く戦死した。これが川中島合戦のなかでもっとも有名な合戦である。この戦いの折り、小山田氏の郡内勢が上杉勢の横から攻め入ったので劣勢を挽回し上杉勢を敗走させたと『勝山記』は、郡内勢の活躍振りを伝えている。
 永禄5年秋、信玄は西上野の諸城を攻め、9月に信濃に帰り、11月に北条氏康とともに上野・武蔵の上杉方の城を攻略し、松山城(埼玉県吉見町)を包囲し翌6年2月に落城させた。謙信は古河城(茨城県古河市)を奪い返そうとして、4月20日に飯山口の備えの失態をいさめ、警戒を厳重にさせ、6月に越後に帰った。12月、武田・北条の連合軍は、またしても上野の上杉方に属する諸城を攻めたので、謙信も関東に出陣し、翌7年4月上旬まで各地を転戦した。
 永禄7年、信玄は会津黒川(福島県会津若松市)の産名盛氏を北から越後に侵入させ、越後を挟み撃ちする計画をたてた。3月18日、信玄は信濃と越後の国境に近い野尻城(長野県信濃村)を攻略し、越後領内に乱入して村々を焼き払った。一方、盛氏は4月に軍を越後に侵入させたが、あわてて帰国した謙信の軍に敗れた。また野尻城も奪回され、信玄の計画は失敗に終わった。信玄は飛騨でも軍事行動を行なったが、信玄の勢力が飛騨におよぶと、背後から越後がつかれる危険もでてくるため、謙信も越中の武士たちに対応させた。謙信は8月3日に犀川を渡って川中島に陣を張った。信玄は塩崎(長野市)にでたが、謙信と戦おうとはしなかった。
 謙信も川中島が信玄の支配地になっていたため、無理な攻撃ができなかった。両者の対陣は前後60日にもおよんだが、謙信は飯山城(長野県飯山市)を修築して目付をおき、信玄の軍に備えさせて10月1日に春日山城に帰った。
 こうして有名な川中島合戦は終わり、以後信玄と謙信は激しく戦うことはなかった。

◇西上野の侵略
 武田信玄は永禄5(1562)年秋に上野にはいり、箕輪(群馬県箕郷町)・総社(同前橋市)・倉賀野(同高崎市)を荒らし、作毛を刈りとった。11月には上野から武蔵に進み、北条氏康父子とともに松山城を攻め、翌年2月4日に落城させた。一方、上杉謙信は永禄5年12月関東にはいり、翌年騎西城(埼玉県騎西町)を下して下野にはいり、古河城を回復して足利藤氏を帰館させた。この間に信玄が越後をおびやかす姿勢をみせたので、謙信は6月に越後に帰った。
 謙信がいなくなると氏康が下総にはいり、古河城で藤氏を捕らえて伊豆に幽閉し、足利義氏を古河城に帰らせて古河公方にした。信玄も上野にはいり倉賀野城を攻めた。
 また、吾妻郡の諸士が、上杉方の岩櫃城(群馬県吾妻町)をおとしいれた。信玄は永禄8年2月、西上野にむけて出陣し、さらに謙信を牽制するため、本願寺の顕如と結んで、越中の一向一揆に越後を侵略させようとした。 信玄は5月22日にふたたぴ安中ロに出陣し、倉賀野城を攻め落として箕輪城に迫り、翌年9月29日ようやく箕輪城を手に入れた。これにより西上野が武田の勢力範囲となり、関東計略は一応落ち着き、箕輪城が信玄の西上野支配の拠点となった。

◇駿河攻略にむけて
 駿河の今川義元は上洛をめざしたが、永禄3(1560)年5月19日、尾張の桶狭間(愛知県名古屋市)で織田信長の急襲によってあえない最期をとげた。家督は氏真がついだが、弱体化した今川家に信玄は目をつけた。
 信玄の駿河侵攻に反対した長子の義信は永禄10年10月19日に亡くなり、妻である氏真の妹も駿府に送り返され、両家の関係が緊張した。今川氏は北条氏と協定して、遠江・駿河・伊豆・相模方面から甲斐へはいる塩の輸送をとめた。これに対し、信玄は永禄11年2月、徳川家康と今川氏の分国の駿河と遠江を東西から攻めとる約束をした。
 越後では3月に信玄に味方した謙信の重臣の本庄繁長が本庄城(新潟県村上市)で兵を挙げたが、謙信軍に攻められ籠城せざるをえなくなり、信玄は救援に努めた。7月に信玄は飯山城(長野県飯山市)を攻撃して、関山街道から越後を攻略しょうとしたがかなわなかった。謙信は11月7日から村上本城を攻撃し、翌年3月に繁長を降伏させた。
 謙信の注意を越後に引きつけた信玄は、駿河侵攻の態勢を固め、永禄11年12月6日に駿河に侵攻した。今川氏真は薩唾峠(由比町と清水市の境)を固め甲州勢を防ごうとしたが、信玄に内通していた瀬名信輝らが一戦もまじえずに後退し、今川勢の先鋒も本陣に引き揚げたため駿府にしりぞいた。
 甲州勢は13日に駿府に乱入した。信玄の駿河侵入と同時に徳川家康も遠江攻略をはじめ、12月27日からは掛川城(静岡県掛川市)の氏真を攻めた。
 この頃、信玄配下の秋山信友が遠江に侵入し、見附(静岡県磐田市)に陣を張って家康勢と交戦した。家康は本拠地の岡崎(愛知県岡崎市)と掛川とを遮断されたので、信玄に強く抗議した。これによって家康は信玄への疑惑を深め、同盟関係を解除し、北条氏や謙信と結びつくようになった。
 信玄が駿河に進出すると、北条氏は氏真救援のために駿河に出兵した。北条氏政は12月12日に小田原を出発し三島(静岡県三島市)に到着したが、翌日駿府は信玄の勢力下にはいり、氏真も掛川城へ逃足したので、海路救援軍をだした。翌永禄12年1月26日、氏政は三島を出発し、駿河にはいり薩唾山の要害に陣を構えて信玄の背後に迫った。
 信玄は山県昌景を駿府にとどめ、本陣を久能城(静岡市)におき、武田信豊を進ませ、興津城(静岡県清水市)を築いて北条軍に対抗した。この間に北条氏と上杉氏が接近したので、信玄は織田信長をつうじて将軍を動かし謙信の軍事行動を押さえようとした。御内書は2月18日に越後春日山へ届けられたため、以後謙信の動きがにぶくなった。
 家康は3月8日に氏真と単独講和を結び、遠江を割譲すれば北条氏と協力して信玄を追い払い、駿府に帰れるようにすると申し入れた。信玄は関東の反北条の勢力と手をにぎつて、北条包囲網を結成し、北条氏と上杉氏が手を組むことを妨害させた。
 興津の滞陣は長期にわたり食糧もつきかけてきたので、信玄は四月十九日に江尻城(清水市)を守る穴山信君に城の守備を厳重にするように命じ、24日急に撤兵した。
 すると家康が駿府を占領し、氏政とともに今川氏の居館の焼け跡を普請して、館ができたら戻すという条件で、氏真のいた掛川城を5月17日に開城させた。氏真は当面伊豆の戸倉(静岡県清水町)に赴いて氏政の庇護をうけることになった。

◇駿河攻略
 永禄12(1569)年6月16日、武田信玄は再度駿河に攻め入り、古沢新地(静岡県御殿場市)、さらに伊豆の三島を攻め、先鋒隊は北条(静岡県韮山町)で勝利をえた。
 その後、小田原に進もうとしたが、箱根と足柄の峠にはばまれて富士郡にはいり、25日(一説には26日)から大宮城(静岡県富士宮市)の攻撃を開始し、7月早々に落とした。その後信玄は上野にはいり、9月10日に武蔵鉢形城(埼玉県寄居町)を囲んだ。ついで滝山城(東京都八王子市)の攻撃を開始したが容易に落ちなかったのが、小山田の郡内勢の活躍は目覚ましく、「小山田兵衛(信茂)ハ手勢、雑兵共900の人数をもって武蔵の内源蔵殿(北条氏照)領分八王子へ働きに出る、二千余の北条陸奥守(氏照)衆と一戦をなし倍も多き敵に勝つを雑兵ともに二百五十一人の北条衆を小山田方討ち取る」と『甲陽軍鑑』は伝えている。10月1日には南下して小田原に迫った。
 10月4日、武田軍が急に退却を開始したのをみて、北条方は津久井郡と愛甲郡の境の三増峠に急行し、両軍は6日に戦った。武田軍は防戦しながらも、敵に大打撃を与えた。
 11月に信玄はみたび駿河に侵入し、12月6日に蒲原城(静岡県蒲原町)の城下に放火してから、総攻撃に移り城を陥落させた。この勝利によって薩唾山の北条軍も落ちた。その後府中城も開城し、駿河の主要部分を手に入れた信玄は、いったん甲府に帰り、翌元亀元(1570)年1月早々に4度目の駿河進攻を行ない、1月4日から志太郡花沢城(静岡県焼津市)を包囲し、やがて城を手に入れた。この年4月から武田軍は5度日の駿河侵入を行なった。
 元亀2年、6度目の駿河攻めが行なわれた。かねて包囲中の深沢城(御殿場市)は金山衆を使って掘り崩したため、1月16日に落城させることができた。2月、信玄は反転して遠江に攻め入り、3月に高天神城(静岡県大東町)を攻撃したが、陥落させることができず引き上げた。翌月、信玄は子の勝頼とともに信濃から三河にはいり、足助(愛知県足助町)を攻め落とした。また主力は、野田城(新城市)をおとしいれ、さらに吉田城(豊橋市)にまで迫った。
 その後、信玄は東三河を侵略してから、5月上旬に甲府に帰った。信玄は信長や謙信を牽制するために一向一揆と結びつき、石山本願寺との連係を密にした。同時に将軍足利義昭との関係も強化し、元亀3年5月13日には義昭から、軍事行動をおこして天下静謐のために尽力するよう命じられた。
 元亀3年、信玄は木曾義昌配下の山村良利・良候父子らを飛騨に侵入させ、謙信に味方していた江馬輝盛を攻めさせたが、輝盛が9月17日に謙信の陣にはいったので、飛騨での反武田の動きがなくなった。
 こうして信玄は謙信の動きを封ずるとともに、将軍義昭、本願寺の顕如、越前の朝倉、近江の浅井、伊勢の北畠、大和の松永の各氏、さらには廷暦寺・園城寺などと結んで織田信長の包囲網を固めた。

◇三方ケ原合戦と信玄の死
 元亀3(1572)年9月、武田信玄は山県昌景に先鋒衆を率いさせて甲府を立たせ、本人も翌月3日に出陣し、諏訪から伊那を通って南に進み、10日に遠江北部に乱入した。また、昌景の軍は下伊那から東三河へ、高遠城を守っていた秋山信友の軍は東美濃へとそれぞれ侵入した。信玄は軍を二つにわけ、一隊は只来(静岡県天竜市)を占領させ、二俣城(同)へむかわせ、信玄自身は天方(静岡県森町)などを攻略して、さらに南下を続けた。徳川家康は浜松城をでて迎え撃とうとしたが、見附の西の一言坂の戦いで敗れ、かろうじて浜松城に逃げ帰った。信玄は袋井(静岡県袋井市)・見附方面を確保し、二俣城を攻撃して落城させた。一方、秋山信友の率いる軍は11月14日に岩村城(岐阜県岩村町)を奪取した。
 信玄は11月22日に天竜川を渡り、秋葉街道から家康本拠の浜松城(静岡県浜松市)にむかう姿勢を示して三方ケ原(浜松市)へとでた。そこへ家康が織田信長の援軍とともに攻撃を加えて合戦となったが、武田軍の圧倒的な勝利に終わった。これが有名な三方ケ原合戦である。小山田信茂は、中央に配され先陣をきったとされる。翌日、信玄は兵をまとめて刑部(静岡県細江町)に陣をとり、そのまま越年した。
 翌天正元(1573)年1月、武田軍は三河の野田城(愛知県新城市)を包囲し、2月10日に陥落させ、27日に信玄は野田をたって長篠城(愛知県鳳来町)にはいった。
 こうした信玄の動きは、反信長の勢力をおおいに力づけた。逆に、当時浅井・朝倉氏を攻撃していた信長は、信玄が三河まで迫り、その将の秋山信友が東美濃に侵入し、長島(三重県長島町)では一向一揆がおきたため、岐阜に帰った。しかし朝倉義景は信長が引き上げると越前に軍を引いてしまい、信玄の度重なる出陣要請にもかかわらず、ついに軍を動かさなかった。一方、浅井長政はその後も奮戦を続け、信玄の動きに期待をよせていた。また将軍義昭も信長に対抗して、京都二条城の守備を固めた。さらに本願寺も挙兵した。
 しかし、信玄はすでにこの一連の軍事行動のなかで病魔におかされ、野田城を攻略してからは軍を進めることができなくなっていた。長篠に引き上げてからも病状はいっこうに好転の兆しをみせなかったので、やむなく兵をおさめて帰国することにしたが、その途中、天正元年4月12日、伊那の駒場(長野県阿智村)で死亡した。時に53歳であった。天正4(1576)年恵林寺にて信玄の葬儀がおこなわれ小山田信茂は、剣持役を務める。

【詳しく知りたい人】
柴辻俊六 『武田信玄』 1987 文献出版
笹本正治 『武田信玄』 1997 中公新書