佐伯公蔭(さえきこういん)

 市内田原と十日市場の境界となる桂川に架かる橋は、佐伯橋と命名されている。
 この佐伯は、古くは田原神社周辺の地名であり、佐伯公蔭の居住地があったと『甲斐国志』に記されている。
 また、残簡風土記に、元明天皇の代、和銅2年6月に佐伯公蔭により住吉神社が勧請されたと記されており、此より10町ばかり東、法能村の西に住吉という地があり、ここは住吉明神の社地であり、川原なれば出水の度ごとに淵瀬が変り、思うに、神祠もいつの世にか流失してしまった。郡中外に住吉社無く地形も佐伯の続きなれば、これ公蔭の勧請した住吉社であるとされる。

古城山
 頂を撞鐘堂という。この山東より西北に横たはり鹿留川その岸を巡り今橋の東に至って桂川に合流する。
 周囲2町ばかりの小嶺にして衆山に離れて孤立せり東より上る道あり、中間堀切あり、最頂の所平坦にして方五間許、中腹に2段平地の所ありこれ古へ陣鐘を懸け急を谷村へ告げ、また、西ハ吉田・船津へ告げなるべし。
 天明中嶺上に住吉明神の社を建つ。残簡風土記を引て和銅2年佐伯公蔭勧請する所とすその所以を尋ねればこの山に廃祠がありその神体鉢のごとき物の中に人坐した形である。或人是舟に乗れる姿に似ており、住吉明神の神体であるといって山上に神祠を建てた。また、この山舟形に似ており、住吉は海上を守護し玉う神にして此山にも相応ずれば住吉明神なること疑いなしとて、造営せしよし、しかれどもこの山全く陣鐘の堂ありし地なれば今に鐘持堂あるいは古城山などといって住吉の名はきえてしまった。(『甲斐国志』)