武 田 信 昌(たけだのぶまさ)
応永16年(1409)7月、鎌倉公方三代の満兼が病没し、その子持氏が就任した。すでにこれ以前から、幕府と鎌倉府との対立は表面化しており、持氏の就任によって一層その対立が鮮明になっていった。
応永22年(1429)関東管領であった犬懸上杉家の氏憲(禅秀)は持氏と意見が合わず対立し管領職を辞任させられた。
代わりに山内上杉家の憲基が就任し、それに不満な氏憲が反乱を起こした。これを上杉禅秀の乱という。
甲斐国守であった武田信満は娘が禅秀の妻であったところから禅秀に加担した。一時は禅秀方が鎌倉を支配したものの、幕府の援軍によって勢力を挽回した持氏方の勝利となり、応永24年正月に禅秀は自害した。
持氏は直ちに禅秀に味方したものの追討を開始し、2月に入ると甲斐へ出陣した。
大槻(大月市)に在陣し、大軍をもって信満を攻め、敗退した信満は2月6日、木賊山(東山梨郡大和村)で自害した。
武田信重・信長
これによって、武田氏の甲斐一国の統一事業は中断され、その後守護不在の期間が20年余り続くのである。
信満の子信重は出家して高野山に逃れ、国内では反守護勢力の逸見有直らが鎌倉府に出仕して主導権を握った。信重の弟信長は在国して逸見氏に対抗したが、持氏が逸見氏を支持して、再度甲斐へ出兵してきたので敗退し、鎌倉府への出仕を余儀なくされた。守護不在の間、守護代の跡部氏が代行し、輪宝一揆と称する国人連合を組織して勢力を伸長させてきた。信長はその子伊豆千代丸とともに日一揆を組織してそれに対抗した。
この時期の状況については、『鎌倉大草紙』に詳しい。そうした状況のもとで、永享10年(1438)、鎌倉府と幕府との対立が決定的な局面を迎え、いわゆる永享の乱が起こった。持氏は敗北して自害し、鎌倉府は滅亡した。幕府は信濃守護の小笠原政康に命じて、流浪していた信重の甲斐守護復帰を援助させ、8月帰国が実現した。
信重はそれから宝徳2年(1450)に没するまで、守護として混乱した国内の再建に努めているが、その成果は思わしくなかった。
武田信昌
信重の子信守は若くして病死し、康正元年(1455)、その子信昌が9歳で家督をつぎ、跡部景家が守護代となった。これより跡部氏が専権をふるうことになるが、しかし成長した信昌によって、寛正6年(1465)、跡部一族は滅亡された(『王代記』)。
信昌は在世中の延徳4年(1492)に隠居して家督を長子信縄に譲るまで、ほぼ40年間守護職の座にあった。
この期間は前代に比べれば安定的といえるが、しかし、例えば文明14年(1482)には「甲州地下一揆起こる。翌年2月一揆人々討死」(『王代記』)とみえているように、従来の国人一揆のほかに地下一揆も起こっているような状況があった。
一方ではこの頃より信濃勢の甲州乱入なども断続的に起こっており、領国経営が危機的状況であったことに変わりがない。
前述したように、信昌は延徳4年に家督を信縄に譲ったが、それに不満の弟信恵が反乱を起こした。信昌も信恵側を支持して、これ以後ほぼ15年間にわたって、両派の対立による内乱が続いた。この頃から書き始められた都留郡内地方の年代記である『勝山記』では、「甲州乱国二成始ル也」とあって、甲斐での戦国時代の到来を告げている。
この内乱は、永正4年(1507)に、信縄の跡をついだ信直(信虎)の勝利によって終結し、この後、信虎が国内の反守護勢力を一掃し、領国の統一を実現するとともに、近隣戦国大名領への侵略を開始していった。
- ◇長生寺
- 郡内地方の名刹である曹洞宗長生寺は、武田信昌開基の寺と寺記に記されている。
- 【詳しく知りたい人】
- 都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会
柴辻俊六『武田信玄』 1985 文献出版