足 利 持 氏(あしかがもちうじ)

 応永5年(1398)に生まれる。室町前期の武将。鎌倉公方。満兼の子。上杉禅秀の乱を鎮定する。上杉禅秀の乱は、応永23年(1416)上杉梓禅秀(氏憲)が鎌倉公方足利持氏に親しておこした乱。
 当時、関東管領であった氏憲は鎌倉公方足利持氏と不和になり応永22年(1415)職を辞したが,将軍義持に不満をもつ弟義嗣、持氏に不満をもつ叔父の満隆らとはかり,一門ならびに姻族千葉・岩松・武田らとともに翌年8月挙兵。持氏を襲い、これを駿河に追った。しかし幕府がただちに処置を決し駿河の今川範政らに持氏救援を命じたため。翌年正月,氏憲らは敗れて鎌倉雪下で自殺し、乱は終結した。
 甲斐守護の武田信満もその女が上杉氏憲に嫁している関係から、その子の左馬助信長(信重の弟)や、また信満の妻の兄弟にあたる都留郡の小山田氏らとともに、氏憲に味方して持氏らの軍と戦った。氏憲らが鎌倉に敗走して雪ノ下別当坊で自害した後、武田信満・小山田氏らは甲斐に逃がれ、信長もいずこへともなく落ちて行った。これが有名な禅秀の乱で、ひいては、永享の乱・結城合戦とうちつづく東国の動乱の導火線をなす事件となった。
 氏憲滅亡後もその余党はなお各地に残存していたため、持氏はこれら氏憲に味方した諸氏を追討するために討伐軍を各地に送った。この氏憲余党討滅戦の矛先を真っ先にうけたのは、甲斐に逃げ帰っていた武田信満であった。足利持氏は2月の初め、上杉憲宗を将としてこれを追撃させた。信満は小山田弥二郎の子らの応援をえて都留郡猿橋の要害に拠って追討軍を迎え討ったが衆寡敵せず、ついに木賊山(後の天目山、東山梨郡大和村)に入って自害した。一方、信満を守る小山田氏の軍は岩殿山円通寺(天台宗)に陣を構えるなどして憲宗の兵に抗したようであるが、これも信満とともに自刃して果てた。この戦闘で猿橋の集落が焼かれた。
(史料1)
着到
 久下修理亮入道代子息信濃守憲兼申軍忠事
右、為武田八郎信長御退治、依大将御発向、去月十九日令
。馳参武州二宮、而同廿五日罷立彼所、馳-参甲州鶴郡大槻
、至干信長降参之期、致宿直警固上者、給御証判、為向後亀鏡、恐々言上如件。
 応永卅三年八月 日
 承了 (花押 一色持家ヵ)
(松平義行家旧蔵文書)
(史料2)
着到
 善渡藤太郎憲有申軍忠事
右為武田八郎信長御退治、大将御発向之間、去六月廿六日馳参座間、於晦日青山御陣、同七月二日鶴河、同八日小西、同十五日大槻御陣等、致宿直警固之処、同八月廿五日信長降参之間、至干大将帰参之期、在陣無退転之上者、聊下賜御証判、為向後亀鏡、恐々著到如件。
  応永卅三年九月 日承了 (花押 一色持家ヵ)
  (『新編武州古文書』)
(史料3)
甲州田原、致忠節之由、刑部少輔持家、所注申也、尤以神妙、弥可戦功之状如件、
  応永卅三年八月十一日 (花押 足利持氏)
  江戸大炊助殿 (東京都 牛込三郎家文書)
【解説】
史料1は、持氏軍が「大槻」(大月)に布陣したとき、武蔵北一揆に属する久下氏一隊の着到状である。
 史料2は、同じく善渡(千波カ)氏の着到状であるが、六日から相模青山(神奈川県津久井町)・「鶴河」(上野原町)・「大槻」と2カ月も戦い続けてきたことを物語っている。これらの合戦で、信長方についたと推定される加藤・小山田氏等の勢力は敗北した。
 史料3は、同じく武蔵南一揆の大将格の江戸氏に対する田原の戦闘の軍忠状である。
 その後,上杉持氏は、関東に勢力を破って幕府に対抗。永享10年(1438)関東管領上杉憲実を討とうとして憲実を助ける幕府軍に敗れ鎌倉に退き武蔵金沢の称名寺で剃髪、謹慎したが義教(室町幕府6代将軍)は許さず、翌年鎌倉永安寺で自殺。
【詳しく知りたい人】
市史資料編 古代・中世・近世1 1992 都留市史編纂委員会
都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会