有馬 晴信(ありまはるのぶ)

 永緑10年(1567)生まれ。キりシタン大名。肥前有馬城主。義貞の子。天正7年(1579)受洗してキリスト教徒となる。天正10年大友義鎮(よししけ)・大村純忠とともに少年使節をローマに派遣。豊臣秀吉・徳川家康に仕え、慶長11年(1606)長崎でのボルトガル船焼き打ちなどに功をたてたが、慶長17年(1612)岡本大八事件に連坐し、甲斐に流罪となり切られた。
 晴信の配流地は、初鹿野村(現大和村)で、現在もこの旧跡が残されている。
 このあたりは、当時、谷村城主鳥居土佐守成次の領地となっていた。成次は駿府城主徳川大納言忠長卿の家老職として、都留郡1万8千石、駿河国の一部2万石、甲斐国国中深沢郷、日影村勝沼村等1万5千石、合せて5万3千石を領していた。晴信は、鳥居土佐守成次の監視の下にこの初鹿野村(現大和村)に蟄居幽閉を命ぜられた。慶長17年5月6日板倉周防守重宗及び鳥居土佐守成次は、検使役となり150人を従えて幕府の命を伝えて晴信に自刃を迫った。晴信はキリシタン天主の十戒に徒つて老臣梶左エ門に命じ自らの首をはねさせて背教の罪を守ったと伝えられている。
  霊 名  ドン・ヨハネ
  仏霊名  晴信院殿迷誉宗転大禅定門
【詳しく知りたい人】
中村光太郎「切支丹大名有馬晴信について」『都留市郷土研究会会報(三)』 1979 都留市郷土研究会