高 山 五 兵 衛(たかやまごへい)
初代高山五兵術長繁 (のち長重、童名丑之助)
高山平右衛門繁勝の3男として天正17年(1589)生れる。幼少より明敏で弱冠泰朝に仕えた。大阪の役に泰朝に従ってしばしば功あり、これによって陣中に於て黒星の兜を賜わり、家宝として子孫に伝えたという。名も長朝の一字を賜わり、泰朝が日光東照宮造営を奉行した時、長繁も之に従って勤力した。
これらの功により谷村へ移封した当時は、兄傳右衛門繁政より禄高も多く500石を得ていた。
谷村における邸宅も大手通りの中間にあり広大な土地に構えていた。
土木事業にも精通し、総社時代の天狗岩堰、谷村に移封後開さくした谷村大堰の事業の御用掛を勤めた。古き歌に「ココノ五兵衛ドノ、ウソツカヌ、名も高山の御ヒト哉、土卜銭トヲ林引カヘ」という歌を作り、時の小児たちが謡ったと「秋錦録」に記されている。
この工事に際しては、農民に対して3ケ年間年貫を免除し、16歳以上は土1升を銭1升に替え、相応の労金を支払い領民と一致協力のもとに2年半で工事を完成させた。
歌の中の五兵衛は長繁のことで、「林」は同じく御用掛の林善兵衛成範(当時450石)のことである。
正保3年(1646)7月7日卒。行年58歳。法名光現院常蓮居士。弟の僧亮海が開基した秋元家菩提寺泰安寺に葬られ、後に谷村東漸寺に改葬した。
2代五兵術繁春
長繁の嗣子として寛永6年(1629)3月6日生れる。富朝、喬朝両君に仕え、喬朝の時家老を勤めた。倹約家で巨万の富を得て私事に金をつかわず諸士、百姓もその恩を蒙る者が多かったと言われている。
延宝4年(1676)正月18日卒、行年48歳。法名光智院常玄居士。谷村東漸寺に葬られる。
3代五兵衝公重(のち重輝と改む)
高山文左衛門孝繁の3子で、繁文の弟に当り萬治2年 (1659)2月24日江戸に生れた。
繁春に養われて繁春の女(与女)と結婚し家督を嗣ぐ。喬朝に仕え老いて後家督を嫡子公重に譲る。
享保16年(1731)11月9日卒。行年73歳。法名智徳院完全日之居士。川越志義町法花宗蓮信山妙養寺に葬られる。
公重は、芭蕉門下の白豚!
江戸初期には、俳諧の世界は貞門俳諧が主流であったが、延宝年間より談林俳諧が発生し両者が対立するようになった。このような中、元禄期になると芭蕉などの新興のグループが台頭し、活躍するようになった。この新興勢力と関係していく谷村の俳人に白豚が、いる。白豚は、高山麋塒の実弟で高山五兵家の家督を継いだ公重と推定されている。
白豚の仕える秋元家の江戸藩邸は、墨田川を挟んで芭蕉庵ときわめて近い距離にあり、新興俳人の芭蕉のもとに集まった門弟の一人として、白豚は麋塒より先に俳諧の道に入ったものとされる。
- 【詳しく知りたい人】
- 楠元六男特別寄稿 開館1周年秋季特別展図録「芭蕉・旅・甲州」2000 ミュージアム都留
小林佐多夫 『芭蕉流寓と高山麋塒』 1981