都 留 郡 (つるぐん)

 現在、郡内地域は南・北都留郡に分離しているが、これは明治11年(1878)の郡区町村編制法により、南・北都留郡が設置されて以降のことである。それ以前は、一体の地域として、都留郡が設置されてきた。
 この都留郡は、律令体制下の甲斐国の地方組織として、山梨、八代、巨麻と共に置かれていたことが『廷喜式』や『和名類聚抄』に認められる。
 『延喜式』は、廷書5年(905)に藤原時平、忠平が醍醐天皇の命により編纂に着手し、延長5年(927)に完成した律令格の施行細則である式を集大成したものである。
 この中の民部上には全国の国名、等級(大・上・中・下)、所管の郡名、都からの距離による区分(近国・中国・遠国)が記載されている。
甲斐国上管  山梨 八代 巨麻 都留
       (『延喜式』巻22 民部上)
 『和名類聚抄』は、わが国最古の分類体漢和辞典であり、承平5年(935)醍醐天皇の皇女勤子内親王の依頼を受けた源順によって編纂され、略本10巻と広本20巻がある。
 広本は略本に国郡部、郷里部を加えられたものとされる。
都留郡  相模 古郡 福地 多良 賀美 征茂 都留
 
       (『和名類聚抄』国郡部)
 これにより都留郡には7郷が置かれ、桂川下流域から配置されていたことがわかる。郡内地図
 7郷の比定地は、下記の通りである。
相 模
 南都留郡秋山村、道志村とする説(『甲斐名勝志』)と神奈川県津久井郡とする説(『大日本地名辞典』)がある。
古 郡
 上野原町付近とされ、牛倉明神の棟札に「古郡上野原村」とあり、また、中世には古郡氏の居館が置かれていた。郷名は、都留郡の郡家がもと置かれていたことによる。
福 地
 大月市の柳川町から富浜町及び猿橋町にかけての地域とされ、富浜町鳥沢に「福地権現」があり、梁川町綱之上小松明神の棟札に「福地郷綱之上村」と記されているという。
多 良
 後の田原郷で、都留市域が中心とされる。現在も、田原の地名が残り、田原滝もある。
賀 美
 郷名は桂川の上流に位置することによる。都留市十日市場付近から西桂町、富士吉田市一帯が郷域とされる。
征 茂
 北都留郡丹波山村・小菅村地方とする説(『甲斐国志』)と、上郷に対する下郷とし大月市大月付近とする説(『甲斐名勝志』)があり、後者が有力とされる。
都 留
 上野原町の西部及び南部が郷域とされ、鶴川、鶴島などは郷名の通称とされる。
【都留郡名の由来】
 郡名となったつるの意味には、川の激流に面する地や、古代朝鮮語の原野などの意味があるといわれている。また、平安時代になると、つるの音が鶴を連想させ、遠い甲斐にある延命長寿のめでたい鶴の郡として、和歌に詠まれるようにもなった。

室草の都留の堤に成りぬがに児ろは言へどもいまだ寝なくに  『万葉集』巻14

雲のうへに菊ほりうえて甲斐国鶴の郡をうつしてそみる
 (権大納言長家)

甲斐へまかりける人につかはしける  伊勢
君か代はつるの郡にあえてきぬさだめ無き世の疑いもなく  (『後撰和歌集』巻19離別)

甲斐の国へ下りまかり申し侍りけるに  壬生忠孝
君が為買ひ(甲斐)にぞ我は行く鶴のこほりに千世はうるなり (『新千載和歌集』巻18 雑歌下)

 最初の万葉集巻14の東歌は、「歌の大意は、都留川の堤ができ上がったように、二人の仲はすでにできているがごとくあの子はいうが、まだ共寝をしたわけではないというもので、待望久しい都留川の堤の大工事を完成させた喜びが、この地方の人たちの記憶になお新たなものがあったことをうかがわせる。」(磯貝正義『富士吉田市史資料編第2巻古代中世』)とされ、万葉集に都留の地名が登場する唯一の歌である。
 『和歌董蒙抄』には、中国の「菊水の故事」によった都留郡の地名解釈が掲載されている。大月市駒橋の菊花山からは菊花石が採れたとされ、このことから菊水の故事と長寿の動物としての鶴とが一体となって、延命長寿のめでたい鶴の郡という解釈が広まっていったとされる。
 また、甲斐国志には、次のように記されている。
 残簡風土記細注二云フ都留郡或ハ連葛トアリ連葛ハ藤蔓ノ如シ富士山ノ尾サキ長ク連リクルヲ云フ。皆つるト訓ズべシ (『甲斐国志』古跡部第十六之上)
 富士北麓から桂川流域にかけて細長く伸びた平坦地が、まるで富士山から伸びた藤蔓のような地形をしているとして、つるという地名が付いたと説明されている。
 また、桂川もつるをかつらと呼ぶことから付けられたという説を紹介している。

【詳しく知りたい人】
都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会