最初の万葉集巻14の東歌は、「歌の大意は、都留川の堤ができ上がったように、二人の仲はすでにできているがごとくあの子はいうが、まだ共寝をしたわけではないというもので、待望久しい都留川の堤の大工事を完成させた喜びが、この地方の人たちの記憶になお新たなものがあったことをうかがわせる。」(磯貝正義『富士吉田市史資料編第2巻古代中世』)とされ、万葉集に都留の地名が登場する唯一の歌である。
『和歌董蒙抄』には、中国の「菊水の故事」によった都留郡の地名解釈が掲載されている。大月市駒橋の菊花山からは菊花石が採れたとされ、このことから菊水の故事と長寿の動物としての鶴とが一体となって、延命長寿のめでたい鶴の郡という解釈が広まっていったとされる。
また、甲斐国志には、次のように記されている。
残簡風土記細注二云フ都留郡或ハ連葛トアリ連葛ハ藤蔓ノ如シ富士山ノ尾サキ長ク連リクルヲ云フ。皆つるト訓ズべシ (『甲斐国志』古跡部第十六之上)
富士北麓から桂川流域にかけて細長く伸びた平坦地が、まるで富士山から伸びた藤蔓のような地形をしているとして、つるという地名が付いたと説明されている。
また、桂川もつるをかつらと呼ぶことから付けられたという説を紹介している。