護良親王(もりよししんのう)

護良親王 後醍醐天皇の皇子。母は北畠師親の女親子。誕生の年月日は明らかでないが、兄弟の宮々中おそらく年長者であろうと考えられる。若くして三千院(梶井門跡に入室、尊雲法親王と称し、のちに同門跡をつぎ、天台座主になること2度、二品に叙し、大塔宮と号された。
 元弘の乱が起るや、父天皇を援けて熊野・吉野の山奥に勤王の軍事行動を執るとともに、国々諸方に令旨を発して勤王武士の奮起を促し、楠木正成と相ならび官軍勝利のさきがけをなした。
伝 護良親王の御首級(石船神社) 還俗して護良親王と改名し、建武新政が始まると、帰京し、兵部卿に任じ、その声望は高く、特に将軍として兵権の中枢を掌握する観があった。そこでひそかに武家政治の再興を志す足利氏らによる讒のために勅勘を蒙り、関東に下され、足利直義のもとに幽閉された。やがて中先代(なかせんだい)の乱が起り、鎌倉幕府の残党北条時行らの軍が鎌倉を攻め、直義は同地を支えられず遁走するにあたり、後難を除くために、建武2年(1335)7月23日親王を鎌倉の東光寺で殺害した。
 殺害された護良親王の御首級にまつわる伝承は、各地に伝えられている。都留市盛里の石船神社に複顔術が施された御首級が祀られているが、これは護良親王の御首級と伝えられている。
 毎年1月15日の早朝に、神社の祭当番の引継引きがおこなわれ、この時、御首級の御開帳がある。
【詳しく知りたい人】
都留市史 民家・民俗編 1989 都留市史編纂委員会