葛 飾 北 斎(かつしかほくさい)

葛飾北斎画像 葛飾北斎(1760〜1849)は宝暦10年9月23日、本所割下水生まれ。その一帯を葛飾と呼んだのでそれを姓とした。父は川村某であったが、5歳の頃に徳川家御用達の鏡師、中島伊勢の養子となった。
 幼名時太郎、14,5歳のころ彫師某について彫版を学ぶが、彫るよりは描く興味を覚え、19歳で、役者似顔絵で一世を風靡していた勝川春輩に入門、翌年には春朗と号し早くも細判の役者絵を制作している。天明5年26歳で春朗を改め、群馬亭と号し、寛政4年、33歳で、馬琴と提携、黄表紙「花春虱道行」に描いている。春朗と群馬亭号は両用され、20歳から35歳までは春朗時代と呼ばれているが、その間役者絵60点ほどの他、清長風に背景に実景を入れた美人・相撲絵・武者絵などを描いている。
浅草浄土宗誓教寺にある北斎像 しかし、最も特徴的なのは浮世絵である。寛政7年(1795)36歳、北斎は宗理を号し、春朗号も群馬亭号もすてている。これには何か理由があったとされる。まず『浮世絵類考』の三馬の按記(三馬按ずるに…で始まる補記、文政初年の書入れと思われる)に、「後年破門セラレテヨリ勝川ヲ改メ(略)其後俵屋宗理ガ跡ヲ継テ三代目宗理トナル…」とある。三馬は北斎と親交していたからこの記録の信憑性は確かと言われている。
 ではなぜ破門か。挿話の類で多くを信じ難いが、最も有力なのは、狩野派への入門説である。
 狩野派は浮世絵師ら町絵師との交流を禁じていたから、その反対もあり得るところである。
浅草浄土宗誓教寺の北斎の墓 また北斎は三代堤等琳と交わった。その雪舟13代の末裔を名のる筆意・筆力に魅かれたからだという。加えて住吉内記広行(文化8年没)に土佐派をも学んでいる。
 その関係で、その父広守門人の2代目俵尾宗理の跡をついだという。このころは狂歌本の挿絵を多く描き、栄之・ 歌磨らと筆をとつている。
 以後、彼は20数回の改名、その都度引越を繰り返しているが、宗理時代に続く寛政10年(1798)以後の北斎号、文化8年(1811)以後の戴斗号、文政3年(1820)以後の為一、前為一落款、天保2年(1831)以後の卍号が主である。
八朔祭下町屋台 狂歌本では風景描写に優れ、美人画の細身のところは栄之風、歯まで描き込んだ作もあり北斎らしいところもみせている。
 文化年間(1804〜18)には、中国伝奇小説や歴史物に曲亭馬琴と組んで迫力ある写実的挿絵を描いている。
 その成功は錦絵に持ち込まれ、構図に異才を放つ「富嶽三十六景」(1831〜33)、「諸国瀧廻り」「千絵の海」「諸国名椅奇覧」など傑作シリーズを生んだ。
 彼の版画がフランス印象派に与えた影響は大きく、「北斎漫画」13編(1814〜49)はそのさきがけとなった。
 嘉永2年(1849)90歳を越えた北斎は、肉質画の製作に打ち込んでいたが、4月18日老衰のため逝去。
 都留市八朔祭り下町屋台後幕「虎」の下絵は北斎によって描かれたもので、「東陽画狂人北斎」という号が用いられている。この「画狂人北斎」が用いられたのは文化3年(1806)ごろまで集中して用いられたとされ、この後幕もこの頃の作と考えられる。

【詳しく知りたい人】
永田生慈「葛飾北斎」歴史ライブラリー91 吉川弘文館
ミュージアム都留開館記念特別展「八朔祭と葛飾北斎」図録 1999 ミュージアム都留
小池満紀子「甲州谷村の浮世絵」『浮世絵の現在』1999 勉誠出版