縄文時代(今から1万2千年前から紀元前4世紀頃)

 

 縄文土器が使われだした今から12,000年前から稲作と金属器に代表される弥生時代がはじまる紀元前4世紀頃での約10,000年間を縄文時代という。
 縄文時代は、その発展過程にしたがい、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に分けられている。
 市内では、縄文時代の遺跡が34か所で確認されているが、これらの内で、縄文時代早期の住居跡が発見された生出山山頂遺跡、同時代中期新道式土器、藤内式土器がまとまって発見された中溝遺跡、同時代前期から中期後葉までの住居跡が34軒発見された久保地遺跡、直径50mにおよぶ大環状配石遺構が発見された牛石遺跡、耳飾りを付けた土偶が出土した中谷遺跡、同時代中期から晩期の住居跡42軒及び石遺構、石棺墓が発見された尾咲原遺跡など、全国的にも著名な遺跡が存在する。

【詳しく知りたい人】
都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会

@生出山山頂(おいでやまさんちょう)遺跡  都留市四日市場

【立 地】
標高701.4mの生出山山頂 に遺跡は立地する。生出山は、採石によってかっての姿が偲ぶべくもなくかわってしまったが、山頂部には東西約20m、南北約30m以上の平坦部があり、山頂から少し下ったところには豊かな湧水をたたえていた沢があったと伝えられている。遺跡は、この山頂部を主体に拡がっていた。
【調 査】
遺跡は、太平洋戦争中に油の不足を補うために松根油の採掘が行われた際、土器も採取されたことから遺跡の存在が知られるようになった。
 調査は、採石区及び鉱業権の取得申請に伴う緊急調査として、昭和52年5月9日から5月30日までの19日間にわたって実施された。
 調査の結果、縄文時代早期(今から約8,000年前)の住居址1軒、小竪穴3基が発見され、また、グリッドより弥生時代中期の条痕文系土器片及び環状の磨製石斧が出土した。
【遺 構】
 住居址は、長軸4.3mの不整方形プランを呈し、覆土中や床面より楕円押型文土器片及び石鏃、磨石、石皿、スクレイパーなどが出土した。
【詳しく知りたい人】
都留市史 地史・考古編 1986 都留市史編纂委員会  
山梨県史 資料編1、原始・古代1、考古(遺跡) 
奥隆行「都留市の先史遺跡(上)」1976.都留市教育委員会

A山ノ神(やまのかみ)遺跡 都留市田原

【立 地】
 都留文科大学テニスコート脇の北側に面した緩斜面に立地する。
【調 査】
 宅地造成工事中に土器がたまたま発見されたことから知るところとなり、昭和55年5月27日から6月7日までの2週間にわたって、調査が実施された。
 調査の結果、覆土上面に小礫や焼土を伴う縄文時代前期諸磯B式期の土壙4基が発見された。また、土壙の確認面において、副葬品と思われる耳飾りが出土。
【遺 構】
 土壙は、第1号址長軸1.1mの不整形プラン、第2号址長軸1.6mの不整形プラン、第3号址は長軸0.7mの円形プラン、第4号址は直径1.1mの円形プランを呈し、覆土より諸磯B式土器片と共に、炭化物が濃密に認められた。
【詳しく知りたい人】
都留市史 地史・考古編 1986 都留市史編纂委員会  
山梨県史 資料編1、原始・古代1、考古(遺跡)  
奥隆行「都留市の先史遺跡(上)」1976.都留市教育委員会

B 山梨原(やまなしばら)遺跡 都留市夏狩

【立 地】
 富士山から流出した溶岩台地上及びその末端に立地する。この溶岩台地の末端である遺跡の北側には、豊富な湧水が湧き出ている。
【調 査】
 中央自動車富士吉田線の四車線化工事に伴う緊急調査として、昭和54年12 月14日から昭和55年3月5日まで、延べ38日間にわたって実施され、第1地点では縄文時代の住居址4軒、土壙9基、集石1基、第2〜4地区では平安時代及び中世以降と思われる土壙13基、溝状遺構45基が発見された。
【遺 構】
 第1地点で発見された住居址は、円形プラン(第1・3・4号住居址)、隅丸方形(第2号住居址)を呈するもので、第1号住居址からは縄文時代後期堀の内1式土器、第3号住居址からは同時代中期藤内1式土器及び磨石、第4号住居址からは同時代前期諸磯B式土器がそれぞれ出土した。
【詳しく知りたい人】
都留市史 地史・考古編(其の一其の二)1986 都留市史編纂委員会  
奈良泰史他『山梨原遺跡』 1982 都留市教育委員会  
山梨県史 資料編1、原始・古代1、考古(遺跡)

C 中溝(なかみぞ)遺跡 都留市小形山

【立 地】
桂川左岸に形成された東西約600m、南北約700mの広さを有する小形山大原の台地のほぼ中央部に立地する。
【調 査】
 昭和47年、農村地域工業導入実施計画に基づき、大原台地一円の整地工事が行われ、同年12月29日に側溝掘削現場から大形の土器片が多量に出土したことから遺跡の存在を知ることとなった。
【遺 構】
 調査によって、縄文時代中期中葉の新道式・藤内式期の住居址6軒が検出された。これらの内、第1号住居址は、直径6mの円形プランを呈し、ロームを硬く踏み固めた床面には5本の柱穴が認められ、また、炉は住居址のほぼ中央部に位置し、方形状の石囲い炉であった。
 本住居址からは、深鉢形土器 10個体、小型無文の筒型土器2個体、浅鉢形土器1個体などの復元可能な土器のほか、多数の土器片と共に、磨製石斧1点、打製石斧30点、石匙2点、磨石2点が出土した。
 これらの土器の文様には、長野県や山梨県などの中部高地に分布した粘土紐やヘラ状工具による爪形状連続刺突文による横位区画文が認められる他、粘土紐をL字状に垂下させるという利根川流域を中心に関東地方全域に分布した阿玉台式土器の影響も認められる。    
【詳しく知りたい人】
都留市史 地史・考古編 1986 都留市史編纂委員会  
奥隆行他「中溝遺跡発掘調査報告書」 1974 都留市教育委員会  
山梨県史 資料編1、原始・古代1、考古(遺跡)

D久保地(くぼち)遺跡 都留市大幡

【立 地】
桂川の支流である大幡川の左岸段丘上に立地する。
【調 査】
 昭和53、54年に宝小学校校舎新築工事に伴い調査が実施された。
【遺 構】
 調査によって、縄文時代前期関山式期の住居址1軒、同時代中期五領ヶ台式期の住居址6軒、同藤内式期の住居址1軒、同井戸尻式期の住居址4軒、同曽利式期の住居址22軒の計34軒の住居址が発見された。 
 これらの内、曽利V式期の13軒の住居址覆土には、多量の火山灰が認められ、この時期に富士山の火山活動が活発化し、火山灰の降下によって集落が甚大な影響を受けたものと推定されている。
【詳しく知りたい人】
都留市史 地史・考古編(其の一其の二)1986 都留市史編纂委員会  
山梨県 史資料編1、原始・古代1、考古(遺跡)

E牛石(うしいし)遺跡 都留市厚原

【立 地】
 桂川とその支流である大幡川が合流する厚原地区字牛石の河岸段丘上に立地する。
【調 査】
 圃場整備事業に伴い昭和54年5月〜8月、昭和55年7〜9月、昭和56年1月〜3月の3次にわたって調査が実施された。第2次調査において、台地の西側を対象として発掘調査を実施したところ、縄文時代中期末葉の大環状配石遺構の存在が確認され、全貌をあきらかにすべく、第3次調査を実施した。
【遺 構】
 牛石遺跡で発見された配石遺構は、直径50mにおよぶ大環状配石遺構(第3配石区)を中心に、東側(第1配石区)、北側(第2配石区)、西側(第5配石区)の各区で発見され、これらは出土土器より縄文時代中期末葉の所産であることが判明している。
 これらの内、第3配石区で発見された大環状配石遺構は、東西南北方向に対応する直径4〜5mの規模を有する小サークル状の配石遺構、これらを環状に連結する列石、この列石の内側に沿うように配された組石から構成され、全体の直径は約50mに及ぶものであった。
【詳しく知りたい人】
都留市史 地史・考古編(其の一其の二)1986 都留市史編纂委員会  
奈良泰史「牛石遺跡の大環状列石」『どるめん20』 1981
奈良泰史「山梨県牛石遺跡−大環状列石の構造」『探訪縄文の遺跡 東日本の遺跡』有斐閣  
山梨県史 資料編1、原始・古代1、考古(遺跡)

F中谷(なかや)遺跡 都留市小形山

【立 地】
 南面に緩く傾斜した洪積台地の末端に位置し、全面に桂川の支流高川が流れる。
【調 査】
 調査は、昭和39年に中央自動車道富士吉田線建設に伴う調査(第1次)、昭和46年には農道拡幅工事に伴う調査(第2次)、昭和54年には中央自動車道富士吉田線4車線化工事に伴う調査(第3次)の3次にわたって実施された。
【遺 構】
 調査によって、第2次調査では、縄文時代後期の住居址1軒と同時代晩期の配石遺構が検出され、また、配石遺構中の楕円形状に配置された石組の中央部から、頭部を南に顔面を上にし、両腕の欠損した土偶が出土した。
第3次調査では、縄文時代後・晩期の住居址7軒、同配石遺構が発見された。 また、同時代中期の配石遺構に伴って人骨3体分が発見された。
【詳しく知りたい人】
都留市史 地史・考古編(其の一其の二其の三)1986 都留市史編纂委員会  
奥隆行他 『中谷遺跡』1973 都留市教育委員会  
奈良泰史他『中谷・宮脇遺跡』 1981 都留市教育委員会
山梨県史 資料編1、原始・古代1、考古(遺跡)

G尾咲原(おざきはら)遺跡 都留市朝日馬場

【立 地】
 桂川の支流朝日川と大平川に挟まれた南面傾斜の洪積台地上に立地する。
【調 査】
 調査は、旭小学校のプール、体育館、新校舎建設に伴い昭和57・58年にわたって実施された。
【遺 構】
 調査によって、東側の体育館建設地からは、縄文時代中期〜後期の住居址が19軒発見され、西側のプール建設地からは、縄文時代中期の住居址10軒、同時代後期の住居址2軒、同時代晩期の住居址4軒が発見された。
 また、住居址群の上面からは、環状に巡る配石遺構が認められ、特に、南側からは同時代後期〜晩期の石棺墓が10数基程検出された。
 また、晩期の住居址からは、山梨県を中心とする地域に分布する清水天王山式土器がまとまって出土し、当地域が同土器の分布の中心地をなすものであることが想定されるようになった。
【詳しく知りたい人】
都留市史 地史・考古編 1986 都留市史編纂委員会  
山梨県史 資料編1、原始・古代1、考古(遺跡)